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「どうする家康」の武田勝頼は、本当に強くてカッコイイ。今年の大河は、勝頼が長篠で勝つような予感がする😆 #どうする家康
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それにしても、どうしてこんな設定になっているのか、ということを想像力を働かせて自分なりにドラマを解釈し楽しむのが、映画やテレビの醍醐味なんじゃないのかな。なぜ、どうしてそうなったという疑問から、どう解釈できるかという想像力があまりにも欠如してないか。
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裏切りや逃亡は、追っ手がかけられ、殺害されます。これは武家も同様ですよね。そして、重要なのが、大名は忍びの妻子を人質として確保しているということです。これは武田信玄が、忍びたちの妻子を甲府に確保しておき、裏切りや逃亡を防いだと『甲陽軍鑑』に記されていることからも窺えます。ですがこ
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今川氏真のことを調査しているのだが、彼の関心事が桶狭間後の対織田・水野・松平になぜ向かないのかがさっぱりわからない。なのに、岳父北条氏康の支援にはとても熱心。三河には出馬しないくせに、なぜ関東に自身で出陣するのか、ほんとに不思議。
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、戦国争乱の大きな要因の一つと考えられている凶作、飢餓を広域連合の協調関係で解決していこうという考えを提示していました。これを荒唐無稽と捉える方々と、理想論ながらもそれを面白く捉える方々で、評価は真っ二つになりましたね。それはドラマなので、いいことだと思います。
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(3)六名村ってどこ?
夏目広次が、村々から参陣を希望する者たちを集め、帳簿の作成を行っている場面がありました。夏目は「六名村の吾作、吾一だな」と言っています(ちょっと聞き取りにくいかも)。この「六名」は「むつな」と読みます。現在の愛知県岡崎市六名町のこと。古沢さんの脚本に、
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ある時期までは、鉄炮は財力で買いそろえることが可能だったと考えていますが、天正期に入るころから、織田信長が畿内を制圧したことにより、敵対勢力への軍事物資(鉄炮、硝石、鉛など)の売買をどうも制限しているふしがあるのです。なので、武田・北条は鉄炮をそれなりに持っているのに、玉薬が
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見守っていました。そもそも、家康と築山殿が不仲であったということは、実証されていません。むしろ、天正6年早々までは正常な状況であったのではないかと考えています(詳細は拙著『徳川家康と武田勝頼』を参照してください)。
ドラマでは、瀬名が戦のない世の中を求め、武田、北条とも結ぼうとし
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るからです。皆さんは、銭で雇われた忍びたちが、銭を持ち逃げしたり、逃亡したりしないのか、信用できるのか、と疑問に思われると思います。それを防止するために、忍びたちの組織はい防止策を講じていました。まずは、忍びの主要メンバーを各グループに配置して、勤務評価や監視を行わせています。
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ない塩は特に重要でした。そのため海を持つ北条や今川からの援助が欠かせませんでした。皆さん、武田信虎(信玄の父)がなぜ追放される羽目になったか、今の研究状況をご存じですか?拙著『武田信虎』や『武田三代』(PHP新書)で詳述しましたが、信虎は周辺諸国と対立しており、継続的に経済封鎖を
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もう情報が出ているようですね。武田氏研究で著名な、柴辻俊六先生が、去る5月21日に逝去されました。享年81。私は、41年にわたるご交誼とご教示を賜りました。衷心より哀悼の意を捧げます。ありがとうございました。程なく最後の著作が刊行されるとのこと。それが遺著となったそうです。合掌
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私は、①を考えており、近年の歴史雑誌などでもそのように記しています。②も可能性を捨てきれません。③は前記のように可能性は低いでしょう。このこともあり、ドラマでは於大の方が、実際には卯年生まれなのに、寅年生まれでしかも三寅だと言い張ることで、竹千代が戦国乱世を生き抜く強い男子に
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だってさ、木曽義仲の愛妻巴御前の武勇を是認して、戦国社会の女性戦闘員を否定することはできんでしょ。
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昔の大河ドラマ「おんな太閤記」をお忘れですか?大河ドラマ「黄金の日々」は、自由な商業活動を希求する物語でした。そういえば、密約を交わした徳川と武田が、空砲を撃ち合い、合戦をしているふりをしたという設定に、ものすごい非難がありました。私は「真田丸」で、上杉景勝と真田昌幸が密約を交わ
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のです。後は戦争で他国から略奪して補っていました。「足らぬところは、他から融通してもらい、うまくやっていく」という瀬名の台詞は、こうした背景を知っていれば、あながち否定できません。なかなか、戦国の流通や同盟の内実を、ドラマで説明することは至難ですよね。なのでどうしても言葉足らずに
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揃わないって事態になるのです。そのため、東国の戦国大名は、鉛の代替として青銅、鉄(黒鉄)などを鉄炮玉にしています。北条は、梵鐘を供出させ、武田は悪銭を供出させ、これらを鋳潰して鉄炮玉にしています。まるで太平洋戦争時の日本ですね。むしろ、日本海水運に依拠する上杉の方が鉄炮の玉薬は
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家康が12月26日生まれであることは、慶長8年、家康が征夷大将軍に就任した年の12月26日に、京都相国寺などで「将軍正生誕」(将軍の誕生日)の祈祷が実施されています。これは足利将軍以来の先例にならったものでした。このことから、12月26日生まれは間違いなさそうです。でも、「寅の刻」生まれを
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目指したのは、「戦のない世」だったのです。それがドラマのコンセプトでした。それなのに、なぜ「どうする家康」の瀬名をあれほど批判できるのか、私にはわかりません。ましてや「昔の大河ドラマのほうが重厚感があった」「しっかり作られていた」と、そう批判される方々はほぼ口を揃えておられますが
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し、直江兼続が指揮した上杉軍が、真田軍と空砲を打ち合ったシーンを記憶しています。皆さん、憶えておられないのでしょうか?互いに密約を交わして、戦うフリをすることを「なれあい」といいますが、過去の大河ドラマでも採用された設定です。
あと、瀬名がお金を統一するという提案をしていました。
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されていたのです。そのため甲斐は天候不順、災害、凶作、飢饉の被害を他国からの物資輸送で補うことができず、悲惨な状況になっていたのです。それは信虎時代と信玄時代の物価変動をみると、はっきりわかります。信玄時代になって、凶作になると、他国から物資を購入して補い、危機を回避していた
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京都府と奈良県が、本気で、『京都府史』『奈良県史』を作ると決意したならば、ぜひとも参陣したい。全国の歴史学者垂涎の的となることだろう。現存する寺社だけでも、相当の史料があるはず。歴史学者は、比叡山延暦寺の文書が織田信長によって失われたことを嘆いたとしても、十分な発見に恵まれると
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証明する史料は発見されていません。このように、家康の生年と誕生日については、誰も異儀を差し挟んできませんでした。ところが、これとまっこうから対立する事柄を、当の家康本人が書き残しているのですから、混乱します。
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まぁ、こうしたことも、ドラマの台詞で説明するのは難しいですよね。脚本家の古沢さんは、苦心されたと思います。少なくとも私は、同盟、盟約関係の積み重ねでこうした動きは形成できると判断し、脚色内容に同意しました。瀬名がなぜ希代の悪女と後世指弾されることになったのかという課題に、古沢さん
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これはその通りです。そもそも、作品は、脚本家と製作陣、俳優陣のものです。アタクシたちは、そのお手伝いをしているだけです。もちろん意見や助言はします。それでも、物語の流れを尊重することも多いです。そもそも、史実(現状で認定されている範囲)通りのドラマは、何度もいうように不可能です。 twitter.com/QmHSxpgqThzrxf…