K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(リツイート順)

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はできる限り目を通しています。重視されるべき批判は、今後に生かそうと参考にさせていただいています。むしろ、一般の方々の批判の方が、盲点を衝いておられることが多いです。いろいろお小言をいいながら、毎回観てくれているのだなと感謝しております。俳優陣や制作陣の努力と奮闘に、
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家康が死去した、元和2年、家康側近の以心崇伝は、自らの日記(『本光国師日記』)に享年75と明記しています。これは他の日記類にも確認できます。これを逆算すると、通説通りの天文11年壬寅生まれということになるのです。
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【お知らせ】今まで内緒にしてきた案件、情報開示OKになったのでお知らせします。『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版が、遂に重版されることとなりました。6月10日発売です。皆様、これが最後かも知れませんので、ゲットして下さいね。
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ことはまずないでしょう。しかも将軍任官に伴う願文なのですから。また、数えで61歳ということは、還暦を意味しています。偶然だったのでしょうが、将軍任官と還暦が重なったこともあり、ますます単なる間違いとはいえなくなります。ところが、ここでさらに混乱する事実がどんどん出てきます。
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【お知らせ】11月3日の告知が甲府市広報に掲載されましたので、お知らせします。武田信玄生誕500年記念イベントを甲府で行います。出演は、黒田基樹、千田嘉博、丸島和洋、平山優です。詳細は県からの発表をお待ち下さい。参加をお待ちしております。
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です。岡崎城の復元CGを含め、当時の縄張りすらわかっていませんので、想定復元ということでご了解ください。城郭については、別途、城郭考証がおられるので、そちらで協議されていると思います。
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大河ドラマ「どうする家康」第3回「三河平定戦」はいかがだったでしょうか。それでは、早速、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。#どうする家康 #時代考証の呟き
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(7)水野信元が、大高城に在城する家康を見逃すよう信長に懇願したという話 もちろん史実ではなく、古沢さんの脚色です。あのような設定にしたのは、幼少期の信長と家康との関係、伯父水野信元が甥家康を、口ではともなく可愛く思っていること、などを描写するための仕掛けの一つだったことが
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山梨県の観光関係の皆様、来年の大河「鎌倉殿の13人」も、再来年の大河「どうする家康」も、ともに山梨県は大きく関係しますよ。チャンスを逃さぬようにしてくださいませ。大河「真田丸」を壮烈にスルーした轍を踏まぬようお願いしますよ。
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となんらかわりはありません。もちろん、自分にはあわない、納得できないという方々がおられるのは、当然のことです。批判されることは、当たり前のことです。でも、私たちの仕事を貶める「根拠なき論難」はやはりこちらも傷つきます。こういう歴史上の背景やシステムが存在するので、ストーリーにうま
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死の真相としたのです。ですが、家康自身は生前に母子の供養を行っていました。また、信康に「徳川」を名乗らせなかったとありますが、それは少し前の「#時代考証の呟き」を参照してください。当時「徳川」は家康個人にのみ認められたもので、もし信康に何事もなければ、彼は「徳川」になったはずです
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小山田圭吾氏の発言について、戦国時代の小山田信茂と関連づけるご意見が散見されますが、一緒にしてはいけません。シャレでもいけません。まったくの別件ですし、無関係ですから。一緒にして欲しくもないです!
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家康は、「徳川」姓を許可する範囲を極めて限定しており、息子信康ですら、「松平二郎三郎」のままでした(彼が成長し、家督を継いだら「徳川」になったことでしょう)。家康の生前に「徳川」姓を許可されたのは、二代将軍秀忠、九男義直(尾張徳川)、十男頼宣(紀州徳川)の三人だけです。
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く落とし込むためにはどうしたらいいかを、ちゃんと考えていますよ。それが納得できないのは、仕方ないことです。もっと、面白いドラマ作りが出来るよう、制作陣の末席にいる一人として、これからも頑張っていきます。応援してくださっている皆さま、ありがとうございます。批判してくださる方々、意見
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なってしまっているかも知れません。あと、「戦のない世」を主張するなど、現代的価値観を入れすぎだという意見を多数拝見しました。皆さん、「おんな太閤記」って御覧になったことありますか?あのドラマは、主人公の寧々が「戦はいやじゃ」という言葉を毎回のフレーズにしていました。彼女が夫秀吉と
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強右衛門が城に向かって叫んだところと、磔にされた場所は違うのですよ。現在の磔跡の石碑は、かつては別の場所だったのですが、飯田線敷設に伴い現在地に移されています。 #時代考証の呟き twitter.com/44_the_hermit/…
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かなり豊富という印象があります。景勝期の文書、とりわけ御館の乱のころの史料には、味方の城に玉薬を春日山城から補充しているものがたくさんありますね。太平洋地域と日本海地域の格差については、今後研究すると面白そうです。
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まさに荒唐無稽の極みとの非難が寄せられました。皆さんは、戦国大名間の取引を、銭などの少額貨幣の積み上げで行うという印象を持たれているのでしょうか。当時は、金・銀などを使用して、大口取引は展開されていましたので、お金の一つにするとするというのは、一種の比喩で、実際には秤量貨幣として
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今回はここまでにします。寺内町や一向宗、一向一揆などについては、次回にしたいと思います。なお、本證寺の空誓や僧侶たちの袈裟、衣を始め、寺内町の様子などは、仏事考証、浄土真宗の専門家による考証の方々もおられるので、史料に裏づけられたものであることを付言しておきます。
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大河ドラマ「真田丸」を放送中、上田で講演会とトークショーに出演したとき、会場から「真田昌幸がえげつなく描かれすぎ。何とかしてくれ」とのいいだろ指摘を頂いた。アタクシは躊躇なく「史実はもっとえげつない。お調べ頂いければわかります。むしろ三谷脚本は優しいんです‼️」と力説しました😅 twitter.com/sekigaharanifu…
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1、家康の従五位下三河守叙任と「徳川」改姓について 松平家康は、永禄九年十二月十五日、従五位下三河守に叙任され、苗字も「徳川」に改めました(実際の叙任は、翌永禄十年一月三日)。今回は、この経緯が描かれましたが、 #時代考証の呟き #どうする家康
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今日、チラットお話ししたことですが、三河国衆の人質は、吉田城に置くのが原則。なのに家康は駿府。岡崎松平氏が別格だったことがよくわかる。彼の祖父清康は、『三河物語』ほど過大評価は出来ないが、三河国衆の輿望をえて、これをまとめあげつつあったことは事実。国衆の対立を調停したり、合戦で
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皆さん、「どうする家康」の新キャスト発表はいかがでしたか❓️愛知県の皆さん、新城の皆さん、鳥居強右衛門尉が登場しますよ😃岡部元信とともに、登場することになって、ホントによかったです😆#どうする家康
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の金・銀を公正に量ることができる正確な秤を設定し、さらに地方の価値変動(これは当時の言葉で「田舎目」いなかめといいます)を把握し、換算することで円滑な取引が可能となります。豊臣政権期の東国はまさにこれが実行されていました(豊臣時代は、京目〈畿内の金銀価値〉と田舎目の変動の換算)。
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ことは、恥ではないよ。調べて知識を更新することの方が大事だよ」とずっと言い聞かせていた。アタクシも、何か書く時は、必ず情報源の確認を怠らない。当たり前ですよ、プロはなおさらですから。皆さんも、よく調べてから批判してくださいね。 #時代考証の呟き