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(1)本多正信の登場
今回は、松山ケンイチさん演じる本多正信が初登場しました。正信は、三河一向一揆勃発に際して、一揆側に荷担したため、三河を追放されましたが、後に家康に帰参を許され、その後は家康の生涯にわたる側近であり、知恵袋として仕えました。なので最後まで退場しない、数少ない
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脚本家古沢さんのさすがの表現だなと思いました。また、金陀美具足を義元が家康に贈り、息子と呼びかけるのは、義元と家康の親密な関係性を表現してあまりあると思いました。もちろん、金陀美具足は、当時のものではなく、もっと後に家康が着用したものでしょう。ただ、久能山東照宮に今川義元から拝領
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どうか心を寄せ手頂ければ幸いです。今回、瀬名が自刃する撮影には、私も見守らせて頂きました。俳優陣の鬼気迫る演技と迫力、撮影や演出陣の苦闘を、じっと拝見させていただいておりました。私は映像からそれがしっかりとあふれ出て、伝わり、胸に迫ってきたと感じます。彼らへのエールをお願いします
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致道博物館が、新発見の織田信雄書状を発表しましたね。事前に写真を拝見し、内容のコメントをさせていただきました。これは信雄を仲介とする秀吉と家康の息詰まる従属交渉の経緯を語る貴重な物です。まもなく公開されますので、ぜひ見学に行ってみて下さい。msn.com/ja-jp/news/nat…
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NHKの突撃カネオくんをみてます。図書館の特集がとても面白い。利用者の相談に、即座に対応できる司書さんこそが、図書館と文化の生命線。僅かなキーワードや、ざっくりしたイメージだけで、本を探し提案する。これはTSUTAYA図書館なんぞにできるわけない。それが理解できない自治体の上層部が多い
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し、桶狭間合戦で着用したとの伝承を活かしたものです。これが、義元と家康の関係をよく表現するものだと製作陣が採用したのです。ここは史実と相違することを、あらかじめご承知おきいただければと思います。
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(4)伊賀者の活躍
三河に伊賀者がたくさんいたなんで信じられない、といったご意見を頂戴しています。でも、上記の研究で、伊賀者、甲賀者を始め、忍びたちが各地の戦国大名や国衆に銭で雇われていることはもはや疑いようがありません。なかでも、三河は伊賀者を始めとする忍びたちに関する記録が
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(2)家康の「家」は何に由来するのか
家康の諱にある「家」とは何に由来するのかをめぐっては、古来から議論があります。そもそも家康自身が、「家」の字の由来について語り残すことも、書き残すこともしていないため、彼の思惑は謎のままです。ただ、継父久松長家の影響によるものだという説は、
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(4)服部党、伊賀者ら戦国の忍びについて
戦国の忍びの実態については、拙著『戦国の忍び』角川新書で、東北から九州までの事例を活動の内容に分類して詳しく紹介してあります。そもそも「忍者」と書いて「忍びのもの」と読みます。「にんじゃ」というのは、昭和40年代から言われ始めた造語です。
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(6)関口氏純夫妻の成敗について
通説では、家康が今川氏から離叛したことにより、関口氏純は切腹を命じられたといわれてきました。これは『三河物語』以来の通説です。『松平記』なども、築山殿が「私こそが家康の本妻であり、信康の生母である。しかも私の父は家康のせいで命を落としており、皆は私
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ものと解釈しています。なお、瀬名と今川氏真のやりとりは、前回の時代考証の呟きで述べたとおり、この時彼女は亀姫とともに、岡崎に送られており、駿府には竹千代(松平信康)のみが残っていましたので、完全なるフィクションです。
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ちと、よぱなのであるが、フォロワーさんから、「くのいちはいたのですか?」との質問を受け、「くのいちという言葉は後世の創作だが、女性の忍びはいたでしょうね」と返したことについて、補足。戦国の文書、記録には全く見出だせない。恩師藤木久志先生が戦国の女武者の記録が全く見出だせないと
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それが徐々に緊密になっていくというのを、描いて欲しいなぁと思っていました。古沢さんは見事に描いておられましたよね。駿府で育てば、岡崎がいかにも田舎に見えてしまうし、岡崎城もみすぼらしく見えてしまう。それは仕方ない、それこそが家康と岡崎の当時の関係性を物語っているのです。
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遂にキター--!!真田昌幸役は、佐藤浩市さんだ!楽しみですね。 #どうする家康 twitter.com/nhk_ieyasu/sta…
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大河ドラマ「どうする家康」のミニ解説コーナー「虎の巻」をどうぞ御覧下さい。築山殿(瀬名)の悪女伝説を再考しています。アタクシも解説に加わっております。どうぞよろしくお願い申し上げます。plus.nhk.jp/watch/st/g1_20…
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家康と徳川家臣団が、常に一枚岩だったなんてのは、江戸時代の創作ですよ。その原因を作ったのは、大久保忠教の『三河物語』でしょうね。早いとこ、大久保彦左の呪縛から脱却しなければ。
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何を言いたいかというと、実は鉄炮兵は敵を視認しながら狙い撃ちが出来るのは、初期のころだけで、あとは前がよく視認できない状況での、勘だけによる射撃ではなかったかと考えるのです。その辺をやらないと、再現検証にはならないと思う次第でして。
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(3)国を一つの家になぞらえ、家康にしたという設定について
ところで、ドラマの中では、家康がもう一つの由来について触れるシーンがありました。それは、三河を一つの家だと考え、妻子、家臣、領民はすべて一つの家に住む親、子、兄弟のような間柄であり、これを保護するのが家康自身なのだという
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(1)生母於大の方と家康の再会という話
生母於大と家康が、久しぶりの再会を果たしたといわれるのは、『徳川実紀』などによると、永禄3年5月、桶狭間合戦の直前、尾張出陣の途上であったとされています。家康は、久松長家の居城阿古居城(英比、坂部城、知多郡阿久比町)に立ち寄り、生母と再会を
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すでにいつの間にか取り込まれており、史実を知っていても衝撃を受けるマジックにかかっているのだと思います。三谷脚本のコミカルさが批判を浴びることもしばしばですが、徹頭徹尾シリアスにしたら、救いかわないのがこの時代。でもコミカルを措定し、視聴者を引き込んでいるからこそ、凄惨な現場の
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(8)三河国衆の人質を処刑した話
三河国衆の人質が処刑された話が出てきました。ドラマでは、駿府にいたとの設定で、築山殿らの眼前で処刑が執行されたように描かれています。ただこれは史実ではなく、それをもとにした古沢さんの脚色です。三河国衆の人質は、吉田城に預けられていました。
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(1)元康から家康への改名時期
今回の物語は、松平元康が、今川義元から与えられた偏諱にもとづく「元康」を捨て、「家康」へと改名することで、今川氏との完全なる訣別を告げようとする思慮を重ねるという内容でした。そして、家康と改名することの意味を、「どうする家康」という物語において、