K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(リツイート順)

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いましたが、天文15年末には三河今橋城(豊橋城)を攻略され、今川氏に降伏していたことが明確になっています。つまり、織田に竹千代を手引きするような状況にはそもそもないのです。ただし、息子堯光は、田原城に籠城し、天文16年9月、今川軍を撃退するなど善戦していました。彼の奮戦のために、今川
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これからの季節、マムシに注意してください。私は、去年、高速のサービスエリアから登ろうとして、マムシを見たと逃げてきた方々に遭遇しました。 twitter.com/bamboo4031/sta…
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三増峠に登ったんだけど、ヒルにやられた。皆さんも、夏の山城、古戦場にはお気をつけあそばせ。
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のように、氏純は生き延びているのですから、家康離叛の責めを負うという形での成敗はありません。ただ、関口家の今川家中における地位が、これをきっかけに大きく変動(失墜)した可能性は大いにあります。関口氏純は、家康の義父であるとともに、今川家中における取次役(指南)です。取次役は、自分
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それにしても、フィールドワークがやりにくい時代になった。地図をみながら彷徨い歩いていると、変な目でみられることが増えた。話を聞こうとすると、詐欺やセールスと間違われて、身構えられることも多くなった。いやな世の中になったもんだ。
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とは判明していません。著名なのは、山家三方衆(田峯菅沼・長篠菅沼・作手奥平氏)と、野田菅沼氏の人質です。現在、処刑された人々の供養塔が、豊橋市富本町に「十三本塚」として伝承されています。この「じゅうさんぼんづか」が所在することから、地域の地名が「とみもと」と呼ばれるようになり、
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は、昼夜を問わず、とりわけ夜に命がけの活動をこなす技量を身につけているのです。戦国大名たちは、彼らの技量について「武士が真似しようとしてもできるものではない、下手をすると命を落とすから絶対に真似をするな」(結城政勝)、「夜技鍛錬の者たち」(上杉謙信)などと驚嘆しています。詳しくは
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【お知らせ】告知が出ましたのでお知らせします。8月5日、一乗谷にて講演します。特別展「朝倉義景の一生」関連イベントになります。どうぞよろしくお願いいたします‼️ asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/event/archives…
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「征伐」という語句は、一方的な立場を肯定するものなので、歴史学では使用しない。ようやく歴史教科書からもなくなった。かつては、「長州征伐」とかでしたからね。「義」が「悪」を討つ物の見方からは離脱したほうがよろしかろう。 twitter.com/sekigaharanifu…
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人質交換が成就し、数正は竹千代とともに岡崎に戻ってきた。岡崎の人々は大いに喜び、主従を迎えに出た。石川数正は、幼い若君を自分の鞍の前に乗せ、大きな八の字の髭をピンと反らし、いかにも自慢気だったと記されています。家康重臣石川数正の武勇談として、とても有名ですね。今回の松重さんの数正
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師崎には、千賀氏という海の武家がおり、後に徳川氏に仕え、水軍の一翼を担っています。師崎の皆さん、楽しんで頂けましたか? #どうする家康 #時代考証の呟き
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不仲については、大久保忠教の『三河物語』によくその傾向が現れており、正信は戦のやり方も知らぬ奴だと暗に筆誅を加えている様子が窺えます。ただ、本多正信と大久保家は、犬猿の仲なので仕方がないのかも知れません。このあたりの事情は、いずれ作中でも触れられるのではないかと思います。なお、
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重臣で酒井忠次の一族、上野城主酒井将監忠尚が、さらに東条城で吉良義昭、桜井城主桜井松平家次、大草松平昌久などが次々に叛乱を起こしました。これは、今川氏に呼応した反家康叛乱です。そこに、三河一向一揆が重なり、勃発したのです。一向一揆の蜂起には、酒井忠尚や吉良義昭らが使嗾していたと
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今夜8時からです!ぜひ御覧下さい。どんなお話しになるのか、久しぶりに再会する呉座氏との会話をアタクシも楽しみにしております。春木さんとは初対面。お手柔らかに😃 twitter.com/ShokoHARUKI/st…
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拙著新刊『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書が完成しました。まもなく発売されます(昭和の週刊新潮のCM風に)
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山田雄司編・三重大学国際忍者研究センター監修『忍者学大全』東大出版会に収録されている、荒木利芳「忍者の火器・火術」という論文をご参照ください。とにかく、この論文集は凄いの一言で、必見ですよ。ということで、今回の上之郷城における火花のような飛翔物は、「大国火箭」であり、当時の忍びが
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によると、本多家の祖は、本多助政という人物だといわれます。その息子に本多定通と定正(定政)という二人の男子がおりました。このうち、定通の子孫が忠真、忠勝らになります。いっぽう定正(定政)には正吉という男子がおりました。この正吉には、正経と正明という二人の息子がおり、正経の子孫が
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郎義家に繋がる者として、弓馬の家に生を受け、それを保持してきた」との趣旨を明記しています。この願文は、武田信玄の襲来前夜のものであり(信玄の遠江侵攻は、同年10月10日)、彼への対決を意識したものであることは、文面より明らかです。ここには、二つの意味が潜んでいるとみられます。一つは、
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家康の禁制が存在するのは、甲斐ではすべて穴山領のみ。すでに内通済みでタイミングを見計らっていた穴山梅雪を誘降した時点で、侵攻路にあたる穴山領の安全保障は家康の担当。なのでそうなる。穴山領が味方の地なので進軍は容易なのに、進まない。それは織田が武田本国である甲斐に入るのを待っていた twitter.com/bibouroku1319/…
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明智光秀が生存していただと❓️😳おいおい、いい加減にしてくれよ。冗談は、子孫だけにしてくれ。証明できないゴタクを並べてはいけない。生存も子孫(自称)も。
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はっきり言っておきたい。いかなる目的であろうと、高邁な理想であろうと、それを理由になされる全ての手段は浄化されない。それはすなわち、いかなるテロリズムも、正当化されることはありえないということを意味する。それが称賛されはじめたら、民主主義は破綻に向かう。 twitter.com/SonohennoKuma/…
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霊能、芸能などを通じて彼らが民衆に深く食い込んでいたからであり、それが一向宗伝道のためには大いに力を発揮すると考えたからとされています。  なお、「一向衆」と「一向宗」が室町から戦国期にかけて混用されていますが、「衆」は信仰の集団、「宗」は、古代では学派、中世になると宗派、教団と
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やってたよ。わかりにくかったかもだが、大久保忠世が苦戦してたのが犬居崩れやねん。 twitter.com/CjnfDjz/status…
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【お知らせ】『歴史人』最新号が発売されました。特集「武田三代」です。執筆者は、黒田基樹・丸島和洋・柴裕之氏とアタクシの4人が主要な特集を執筆しています。この4人が同時執筆を担当するのは、初めてかもしれませんね。どうぞよろしくお願いいたします。amazon.co.jp/dp/B09JY6K39S/
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永禄4年4月11日の三河牛久保城(城主牧野成定)攻撃です。  #時代考証の呟き