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ほど登場しないからです。ただ『三河物語』は、水野信元が家康のもとに陣中見舞いとしてやってきて、会見をしたとの記事があります。残念なことに、会見の詳細は記されていません。ところが、一揆側だった渡辺守綱が語り残したとされる『守綱記』に「一揆御和睦、水野下野殿扱ニ而相済申候」(一揆と
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アタクシ、いま、三増合戦の調査を進めています。相模原市の旧城山町、旧藤野町や、神奈川県愛川町で、その成果を講演で発表させてもらえないかなぁ。地元の皆さんに聞いていただき、地元の方でしか知らない情報をご教示いただける機会が得られないだろうか?
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【お知らせ】まだ正式には告知できないのですが、来る8月14日と16日、大きなイベントがある予定です。スケジュールをあけておいて下さいね。ともにかなりデカイです。
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大河ドラマ「どうする家康」の今度の回(「真・三方原合戦」)は本当に楽しみ。でもリアタイできない😢
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が保障されるのだと繰り返し述べています。戦国史研究では、戦国大名は、自分の領国を「国家」と呼称し、領国下の地頭や民衆に対し「国家」への忠節を説き、動員への論拠としてもいたことは常識の範疇です(勝俣鎮夫『戦国法成立史論』『戦国時代論』)。このことは同時に、大名の当主には、「国家」を
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の理屈は、侵略者たる信玄の勝手な論理かも知れませんが、これまで紹介してきた「国家」と大名当主との関係についての意識を知っていれば、こうした理屈が出されてもおかしくないことが理解できるでしょう。このような事情もあり、私は古沢さんの「家康」の「家」は、「国家」を保つ責任を負う者である
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さて、退職して肩の荷がおりた。いろんな方から、虎が野に放たれたっていわれる😆一応、地方公務員だったので、いろいろ一方的に言われても反論できなかった。覆面をかぶったヒトからの攻撃にも耐えた。でももう遠慮はいらないよね😁
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保つ器量が要請されるとの考えもまた存在しており、器量がなくば離叛も辞さぬという戦国の武家の論理も潜んでいるのです。武田信玄は、後に家康とともに今川氏真を滅ぼしますが、この時、信玄は氏真には「国家」を保つべき資質に欠けていたことが、今川を凋落させた原因だと指摘しています。もちろんこ
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〈家康が〉御和睦した。水野信元が仲介役〈扱い=仲裁〉となり落着した)とあるのです。この他に、『参州一向宗乱記』などには、水野信元が軍勢を率いて家康に加勢し、一揆勢と戦ったことが明記されています。『三河物語』『松平記』などは、大久保一族が家康を説得して和睦にもっていったとか、一揆側
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それにしても、新発見って、まだまだあるんですね😳久しぶりに眼福でした。写本すら知られていないのですから、凄いですよ。所蔵者にお聞きしたのですが、かつて数人の研究者がみたそうですが、誰も学会に紹介しなかったらしいです。なぜだかサッパリわからない🤷♂️価値がわからなかったとしか云えない🤷
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の使命であり、なすべきことと家康は心に決めたとしています。しかし、そこには早くも、自ら掲げた理想と現実とのギャップに直面し、戸惑い、悩む姿が浮き彫りになります。そのきっかけを作ったのが、上野城主酒井忠尚、東条城主吉良義昭、大草松平昌久の離叛や、一向宗との出会いだったという筋書きで
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(静岡県袋井市)を寄進した時の奉書に、「夏目次郎左衛門尉広次(花押)」とあり、当時の家康重臣層に、夏目姓で、次郎左衛門尉の官名は、「吉信」以外にはおらず、系図類の「吉信」は誤りで、「広次」が正しいことが判明しました。そこでドラマでは「広次」で登場するのです。いまだに、元は吉信で、
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【お知らせ】告知が出たようですね。12月3日(土)に浜松市中央図書館で「三方原合戦ーその時家康、信玄は?」と題して講演を行います。通説を再検討し、新たに判明したことを交えてお話します。詳細は後日改めて告知があるそうですので、いま少し御待ち下さいませ🙇
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題なく維持することを、子々孫々においてもよく遵守すれば、そしてこの考えを日吉八幡の御教えと同じように大切にして、国を保てば、朝倉家もまた続いていくことだろう」と述べています。武田信玄・勝頼も、「国家」は「御当家」(武田家当主)の力量によって保たれ、そこに住む家臣、国衆、領民の安寧
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ゲゲ!寝ようとしてネットサーフィンしてたら、拙著新刊『徳川家康と武田信玄』角川選書の書影が出てた!帯が!😳何はともあれ、よろしくお願い申し上げます。amazon.co.jp/%E5%BE%B3%E5%B…
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三方原合戦の両軍戦死者一覧をようやく仕上げた。ただ、時間が足りず心残りが多い。でも現状で判明したものだけでも、今後の研究の足がかり提供という意味があるだろう。武田軍も、原昌弘、小幡昌定の他にも数人いることが確認できたのでよかった。戦死した方々を、記録することで供養してあげたい。
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そこで私は、鴨田村に設定するよう提案したのです。なぜかといえば、鴨田村は現在の岡崎市鴨田町にあたり、ここには松平家の菩提寺大樹寺(浄土宗)が存在するほか、多くの松平ゆかりの寺院があるからです。一向宗の有力寺院を訪れた百姓が、鴨田村在住ならば、一向宗とも縁が深い浄土宗の大樹寺の
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行われた場所に選定したのです。これも脚色ですが、軍役動員のための作業が映像表現されるのは珍しいのではないでしょうか。
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しての意味で用いられています。そして、「一向衆」から「一向宗」への展開は、本願寺派を中心とする真宗が、一宗派として自立し、他宗や武家などから認知されていく過程を示すものなのです。
また、「一向宗」の別称として「無碍光宗」(むげこうしゅう)があります。これは、無碍光仏(阿弥陀仏の
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いこと、などです。また、永禄5年1月に同盟が成立していたとしたら、信長の対一色(美濃斎藤)戦、家康の対今川戦、それぞれに相互が援軍を送っていてしかるべきなのに、その形跡が見られないことも重要です。また確実な史料にも、もちろん信長と家康が攻守同盟を締結したことを窺わせるものは、発見さ
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いう意識が実在したと紹介しました。その後、一部の方々から、「家」というのは家臣など武家を指すのであって、百姓を始めとする民衆など含んでいない、とのコメントが寄せられました。残念ながら、当時の「家」は、民衆のそれをも包含するものです。戦国大名の主要財源が何か、ご存じですか?
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【お知らせ】来週の火曜日から、#時代考証の呟き を少しずつ再開しますね。いま少しお待ちくださいませ🙇