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また今回は、信玄と氏真は同盟国であり、今川氏を飛び越えて家康が信玄と直接連絡を取ろうとすることを、無礼の極みと指摘しています。これは当然のことで、古沢さんの史実に基づく脚色の巧さが出ています。詳しくは、拙著『徳川家康と武田信玄』角川選書を御覧ください。#時代考証の呟き
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三河の国主に成長しても、彼のことを見下していました。今回は、信玄が家康を呼ぶときに「岡崎のこわっぱ」などとするようにお願いしました。信玄は、家康を「家康は信長のいうことならなんでも聞くやつだ」と考えており、戦国大名織田氏に従属する岡崎の大身国衆程度にしか思っていませんでした。
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(4)武田信玄が家康を小者扱いする話
武田信玄が、家康からお会いしたいとの願いが出ていることを飯富昌景より聞き、鼻であしらっている場面が出ました。最近の研究で知られるようになったのですが、信玄は、家康のことを「岡崎」「松平蔵人」と家中では一貫して呼び続け、「徳川三河守」となり、
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行われた場所に選定したのです。これも脚色ですが、軍役動員のための作業が映像表現されるのは珍しいのではないでしょうか。
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兵糧米の炊出しをして一揆勢を支えたのですが、余った飯を糀にして、秘かに家康にも献上したというのです。そこで家康は、六名村に糀の特権を与えたと伝えています。もちろん伝承でしょうが、家康との関係が面白いと思い、軍役賦課のための帳簿づくりと、動員可能兵力および持参できる武具の内容調査が
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「○○村」とあり、どこか適当な村を入れなければならないということで、私が考えて選んだものです。この六名村は、糀が特産品で、江戸時代は村の人が農閑期に売り歩いたことで知られていますが、この糀については、次のような伝承があります。それは、三河一向一揆勃発の際に、六名村の人々は、
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(3)六名村ってどこ?
夏目広次が、村々から参陣を希望する者たちを集め、帳簿の作成を行っている場面がありました。夏目は「六名村の吾作、吾一だな」と言っています(ちょっと聞き取りにくいかも)。この「六名」は「むつな」と読みます。現在の愛知県岡崎市六名町のこと。古沢さんの脚本に、
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今川方の家康にとって大きな危機感を抱かせたと思われるのです。こうした史実を参酌しながら、家康の対織田戦が描かれたわけです。
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近い動きがあったのも事実です。織田は、桶狭間戦勝後、永禄4年4月、西三河の高橋郡にある梅ヶ坪城侵攻し、伊保城、矢久佐(八草)城などを攻め、遂に高橋郡(愛知県豊田市)を制圧しています。これは『信長公記』首巻に記録されています。高橋郡が信長自ら率いた軍勢によって制圧されたことは、
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との合戦は、苦戦を免れない状況でした。このことを意識した脚色が、今回は随所になされています。もちろん、「8月某日、松平・吉良連合軍、石ヶ瀬川合戦敗北、戦死者百数十名」などは脚色です。
また、突如、織田の援軍が刈谷に現れ、松平軍が撤退するという話は、フィクションです。ただ、これに
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当時の家康は、西三河の岡崎領を中心に、譜代や周辺の松平一門を何とか麾下に押さえているのがやっとで、東条吉良義昭や幡豆小笠原氏などに合力を依頼し、力になってもらっているという状況でした。なので家康単独の兵力は、水野とは兵力は互角か、少ない可能性があるのです。このため、水野氏ら織田方
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領域は拡大しました。このことから水野信元の軍事力は拡大したらしく、3000人を率いる大身だと、ポルトガル宣教師が記録しているほどです。こうした実力が考慮されてか、水野氏は、朝廷や室町幕府からは、織田氏の家臣ではなく、同盟者として扱われ、別格の存在とみなされていました。それに対し、
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在城していたのですが、桶狭間敗戦後も籠城を続け、織田信長に城明け渡しの交換条件として、今川義元の首級を貰い受けることを申し入れ、それを実現させています。元信はその帰途、刈谷水野信近を滅ぼし、駿河に帰ったのです。そのため、刈谷水野家は、宗家信元が併せて継ぐこととなり、水野信元の支配
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(2)家康の水野攻めの話
尾張国知多郡の国衆水野氏は、緒川水野家、刈谷水野家で構成される大身の国衆でした。永禄3年までは、宗家の緒川水野家は信元が、刈谷水野家は水野信近が継いでいたのですが、桶狭間合戦直後、信近は今川重臣岡部元信の攻撃を受け戦死してしまいます。岡部元信は、鳴海城に
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俳優の演技力の凄さを感じ、あらためて感服した次第です。古沢さんの脚本と、松島さん、松本潤さんの演技がスパークし、胸に迫る説得力があったと、私は個人的に感じています。皆様はいかがでしたでしょうか。
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完全なる創作ですが、戦国を生き抜くためには、弱者は何を覚悟せねばならないかを、我が子を人質に出し、それが見捨てられた経験を持つ於大だからこその説得力があったように思いました。毅然と家康を諭す於大だが、去り際の悲しそうな後ろ姿は、言葉と本心の乖離を見事に表現しているように感じ、
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果たし、涙に咽んだといい、さらに異母弟を紹介されたと記されています。これも、確実な史料では確認できません。今回の於大との再会と、その内容は、古沢さんの脚色です。再会した時期や、その内容は記録に残っていない。だから、ある意味、自由に創作できる余地があるのです。母子再会とその模様は、
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(1)生母於大の方と家康の再会という話
生母於大と家康が、久しぶりの再会を果たしたといわれるのは、『徳川実紀』などによると、永禄3年5月、桶狭間合戦の直前、尾張出陣の途上であったとされています。家康は、久松長家の居城阿古居城(英比、坂部城、知多郡阿久比町)に立ち寄り、生母と再会を
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こんなことを許した時点で、教育の水準は放棄されたも同然だぞ。ふざけるな‼️ digital.asahi.com/sp/articles/AS…
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殿潤様のために、孤軍奮闘しますよ。最後まで討死せず、戦い抜きます😆😆いつ、何時、いかなる挑戦も受けます😆😅 twitter.com/aya_jigokuno/s…
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かなり豊富という印象があります。景勝期の文書、とりわけ御館の乱のころの史料には、味方の城に玉薬を春日山城から補充しているものがたくさんありますね。太平洋地域と日本海地域の格差については、今後研究すると面白そうです。
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揃わないって事態になるのです。そのため、東国の戦国大名は、鉛の代替として青銅、鉄(黒鉄)などを鉄炮玉にしています。北条は、梵鐘を供出させ、武田は悪銭を供出させ、これらを鋳潰して鉄炮玉にしています。まるで太平洋戦争時の日本ですね。むしろ、日本海水運に依拠する上杉の方が鉄炮の玉薬は
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ある時期までは、鉄炮は財力で買いそろえることが可能だったと考えていますが、天正期に入るころから、織田信長が畿内を制圧したことにより、敵対勢力への軍事物資(鉄炮、硝石、鉛など)の売買をどうも制限しているふしがあるのです。なので、武田・北条は鉄炮をそれなりに持っているのに、玉薬が