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皆さん、「どうする家康」の新キャスト発表はいかがでしたか❓️愛知県の皆さん、新城の皆さん、鳥居強右衛門尉が登場しますよ😃岡部元信とともに、登場することになって、ホントによかったです😆#どうする家康
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スペースに参加して下った皆様、ありがとうございました‼️なんと、750人を超える方々に参加して頂いたようで、感激しています。皆様に「どうする家康」に興味を持って頂くために、今後も細々と活動を続けて行きますので、応援よろしくお願い申し上げます🙇
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あら、椿姫ことお田鶴の方の供養塔(椿姫観音)の前ではありませんか。えびすくい、面白いね。 twitter.com/bushidoh_sb/st…
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いま、山梨に帰る電車の中。今夜の「どうする家康」は、さらに面白かったと思いますよ。戦国の忍びをしっかりと描いたのは、初めてです。お疑いなら、山田雄司『忍者の歴史』角川選書、拙著『戦国の忍び』角川新書、そして歴史学による忍び研究を頂点たる『忍者学大全』東大出版会を読んでくださいね。
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私を侮辱したにも関わらず、謝罪すらなくダンマリをきめこみ、ツィートを削除し、逃亡したを人。証拠は確保してあります。私は許しません。 twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…
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し続ける人がいても仕方がない。ゲームの内容を史実だと受け取っている人がいるとはあまり思えないが、普通は興味が出たら調べるもんじゃないのかな?少なくとも、歴史学の関係者以外の多くも、興味が出たら調べるし、わからずにそのままあやふやな理解のままのこともある。それは悪いことではない
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前提が間違っている。ドラマは良質、悪質の区別なく史実ではない。またそれを史実と信じさせているわけでもない。史実だと信じるのは、受け取る側の問題。ならば、ゲームは?小説は?まずはそこから入り、触れ、興味をもち、ホントの所はどうなんだろうか、と進めばそれでよし。それをホントだと勘違い twitter.com/Apple777egg/st…
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さすがに、この暴言は許せない。「脚本家や演出の暴走止められないなら仕事してないのと同じ」とはよくぞ言ってくれましたね。私は仕事をしていないと指弾された、侮辱されたと受け止めます。 twitter.com/hide_yukigumo/…
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第4回は、古沢さんによる家康の苦悩と決断という物語が展開されました。これが次回の、妻子奪回へどう繋がっていくのかをぜひお楽しみください。妻子奪回作戦は、大部分が脚色ですが、史実も含まれています。このことは次回の呟きでご紹介することにしましょう。
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もちろん織田の援軍が派遣された形跡はそれまでありませんでした。ところが、永禄6年末から同7年初頭の三河一向一揆戦では、水野勢が派遣されています。これは、信長との攻守同盟が成立していなければ理解できません。このことから、清須同盟は永禄6年3月に成立したとみられますが、家康による清須城
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『朝野旧聞襃藁』『徳川諸家系譜』などによるものです。裏付けとしては不安が残るものなのですが、これは事実を伝えている可能性が高いのです。というのも、永禄6年秋に勃発した三河一向一揆に際して、水野信元が援軍として家康のもとに来ていることが指摘されているからです。対今川戦でも、水野は
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(3)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅡ
信長と家康の和睦が、攻守同盟に発展するのは、永禄6年3月2日のことと考えられます。これは、信長息女五徳と家康嫡男竹千代(信康)の婚約が成立したことにあります。当時竹千代は5歳でした。このことを記録する史料は、
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いこと、などです。また、永禄5年1月に同盟が成立していたとしたら、信長の対一色(美濃斎藤)戦、家康の対今川戦、それぞれに相互が援軍を送っていてしかるべきなのに、その形跡が見られないことも重要です。また確実な史料にも、もちろん信長と家康が攻守同盟を締結したことを窺わせるものは、発見さ
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、永禄5年1月15日のことについては、今のところほぼすべての研究者は、その実在を否定しています。その理由として、『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には、この重要な事実が記されておらず、江戸時代の編纂物に初めて登場すること、当時の家康に岡崎を留主にして清須を訪問する情勢にはな
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このうち、永禄4年2月の和睦は、新行紀一氏の研究により、明確となりました。この時両者は起請文を取り交わし、領国の境目を決めていたようです。和睦の仲介者は、水野信元でした。このあたりの出来事を、今回は清須訪問の時のこととしてドラマでは描いています。ところが、家康が清須を訪問したという
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(2)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅠ
織田信長と徳川家康の同盟締結については、永禄4年2月に和睦、同5年1月15日に清須城で両者が会盟し同盟が成就したといわれてきました。これは『武徳編年集成』を初めとする江戸幕府の編纂した歴史書によるものです。
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と指摘していますが、これも出産年齢はもう少し若いはずだという推測にもとづくもので、確証を欠いています。生年がわからないのであれば、番組の設定としてはどうかと相談されました。私は自信がなく、反対意見を述べ、他の方に判断を委ねた次第です。
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あり、お市の方の子供ではないことが明らかとなりました。すると、天文16年生まれとして、結婚時は21歳となり、当時としては少し遅く、そのため実は再婚ではないかともいわれてきました。ならば、生年がもっと遡る可能性もあるというわけです。つい最近、黒田基樹氏は、お市の生年を天文19年ではないか
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ものです。近年明らかにされたところでは、浅井長政との結婚が永禄10年、長女茶々を産んだのが永禄12年、次女初は元亀2年、江は天正元年であることが確定しています。浅井氏滅亡後、捕縛され処刑された長政の息子万福丸は、享年10であったことが『信長公記』に明記されていますので、生年は永禄7年で
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あるいは人質時代に印象を残すような状況にはないだろうというのが理由です。ただ、お市の生年については定説がなく、天文16年生まれというのが通説であるものの、確実な史料による裏づけがありません。出典である「柴田勝家公始末記」という近世の軍記物です。そのため裏付けとしては、かなり厳しい
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(1)お市の生年について
お市についても、ご批判がありました。今回の設定では、元康と同じ年ということにしています。そのうえで、元康の人質時代に出会っており、劇的な印象を彼女に残したというストーリー展開にしています。ですが、私は彼女をこの段階で出すことには反対でした。元康と同じ年、
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ものと解釈しています。なお、瀬名と今川氏真のやりとりは、前回の時代考証の呟きで述べたとおり、この時彼女は亀姫とともに、岡崎に送られており、駿府には竹千代(松平信康)のみが残っていましたので、完全なるフィクションです。