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この織田信秀による岡崎攻略という事実こそ、近年明らかになったものです。これは、天文16年と推定される9月、越後本成寺(三条市)の僧侶日覚の書状に「岡崎は弾江かう参の分にてからからの命にて候」(松平広忠は、織田弾正信秀へ降参し、命からがら助かったそうだ)とあることから判明しました。
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していたため、彼を支援する今川義元と敵対するはめになります。広忠による戸田氏との同盟が、反今川に結果します。こうして今川と戸田の戦いが始まります。いっぽう、織田信秀は三河攻めを実施し、広忠を追い詰め、天文16年9月にこれを降伏させたのです。
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まずは、この前提となる話をしておきましょう。松平広忠と水野忠政は同盟を締結し、忠政息女於大が広忠に嫁ぎ、家康を産みます。ところが忠政死後、水野信元は織田信秀と結んだことで、広忠は水野との同盟を破棄し、於大と離縁、田原戸田氏と同盟を結びます。ところが、戸田氏は、東三河の牧野氏と敵対
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戸田は、家康を永楽銭千貫文(百貫文とも)で売り渡したのだという。このことについても、近年まで疑われることはありませんでした。しかしこの逸話も、近年疑義が出され、ほぼ否定されつつあります。
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まず戦国期三河で三嶋暦が使用されていたことを証明すること、そして三嶋暦と京暦のズレが、年をどれほど跨ぐのかを確定させること、などが必要でしょう。まだまだ、やるべきことは多そうですね。
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1ヶ月以上はズレる可能性があります。これは面白い仮説だなぁと思いました。この仮説が正しければ、家康は自分の生年は、三嶋暦では壬寅だが、京暦では癸卯だと自己認識していたことになり、公式記録と家康の自己認識はともに矛盾なく理解できることになります。ただし、この仮説が成立するためには、
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、中世では地方暦も各地に登場し、しばしば京都の暦とのズレが問題になっています。もし、三河岡崎で三嶋暦が使用され、それによる天文11年壬寅12月26日は、京暦では、日数のズレが生じ、癸卯生まれの扱いになるという仮説です。戦国期の京暦と三嶋暦のズレがどれほどなのかは、調査しきれていませんが
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この一見矛盾する考え方は、暦の問題が潜んでいそうなのです。室町・戦国史の研究者には、東国では三嶋大社が発行する三嶋暦が広く使用されていることは周知のことです。ところが、通常は朝廷が管理する御暦(具注暦、七曜暦)が指標とされています。京都を中心として暦が、当時の日本の正式な暦ですが
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なって欲しいと願った結果だという脚色がなされました。このアイディアは、古沢さんのオリジナルです。ところが、今年に入って、柴裕之氏から思わぬ考えを明かされました。それは、もしかしたら、12月26日壬寅生まれも、癸卯生まれも、両方正しいかも知れないという④です。
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私は、①を考えており、近年の歴史雑誌などでもそのように記しています。②も可能性を捨てきれません。③は前記のように可能性は低いでしょう。このこともあり、ドラマでは於大の方が、実際には卯年生まれなのに、寅年生まれでしかも三寅だと言い張ることで、竹千代が戦国乱世を生き抜く強い男子に
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このことから、いくつかの仮説が立てられます。それは、①家康は自らを生まれながらの帝王であることを印象づけるため、生年の操作を将軍任官後に実施したというもの、②家康死後、幕府が操作を行ったというもの、③家康の勘違い、④壬寅生まれも、癸卯生まれもどちらも正しいというもの、です。
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家康が死去した、元和2年、家康側近の以心崇伝は、自らの日記(『本光国師日記』)に享年75と明記しています。これは他の日記類にも確認できます。これを逆算すると、通説通りの天文11年壬寅生まれということになるのです。
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ことはまずないでしょう。しかも将軍任官に伴う願文なのですから。また、数えで61歳ということは、還暦を意味しています。偶然だったのでしょうが、将軍任官と還暦が重なったこともあり、ますます単なる間違いとはいえなくなります。ところが、ここでさらに混乱する事実がどんどん出てきます。
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慶長8年2月、家康は征夷大将軍に任命された直後、彼は陰陽頭土御門家に、無病息災と長寿を祈願するよう求め、自ら署名を加えた願文(都状)を出しています。そこには「六十一歳癸卯年」と明記されているのです。これを逆算すると、天文12年生まれとなり、卯年になるわけです。自分の生年を書き間違える
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証明する史料は発見されていません。このように、家康の生年と誕生日については、誰も異儀を差し挟んできませんでした。ところが、これとまっこうから対立する事柄を、当の家康本人が書き残しているのですから、混乱します。
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家康が12月26日生まれであることは、慶長8年、家康が征夷大将軍に就任した年の12月26日に、京都相国寺などで「将軍正生誕」(将軍の誕生日)の祈祷が実施されています。これは足利将軍以来の先例にならったものでした。このことから、12月26日生まれは間違いなさそうです。でも、「寅の刻」生まれを
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(1)家康の生年と誕生日問題
江戸幕府の公式見解では、家康は天文11年壬寅12月26日である。しかも家康は、「寅の日」「寅の刻」生まれだとされ、いわゆる「三寅の福」に恵まれていたといわれる。確かに調べてみると、同年12月26日は「壬寅」で「寅の日」で間違いないのです。
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ハッキリ言って、家康研究は月単位で進んでいるので、専門家も大変。まぁ、だいたい前に進めているのは、あの4人ほどだが😅#時代考証の呟き twitter.com/suwasirou/stat…
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そこが狙いよ twitter.com/minoruno/statu…
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ハッキリ言わせて頂くと、史料も論文もちゃんとした歴史書もカバーしていない人は、自重したほうが賢明だと思う。まぁドラマの感想や想いは自由ですが、史実で斬り込んでくるのは、無謀としか😞#時代考証の呟き twitter.com/riraku12/statu…
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あとですね、ホンモノの馬だと、あれらのアングルでの撮影は不可能。馬が怖がってダメなのです。「真田丸」の時も、信繁の騎乗シーンは、馬の精密な模型だったのは記憶に新しい。#時代考証の呟き twitter.com/NobunagA_A/sta…
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「どうする家康」第1回で「蔵人」のことを「くろうど」ではなく「くらんど」と言ったので、異論がすごいらしい。どちらも正解です。むしろ「くらんど」読みの方が、室町・戦国期には多い。文明、明応、天正本節用集、元亀本運歩色葉集などはいずれも「クランド」と注記されている。#時代考証の呟き
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ドラマや映画の仕事に携わると、脚本家や俳優陣、そして製作陣の凄さに圧倒されます。脚本家のストーリーテラーとしての巧さと紡ぎだされる言葉の妙味。俳優陣の演技力と迫力。製作陣の映像構築力。こういう才能はまったくないなぁ。#どうする家康