326
数正、彦右衛門、七之助、平八郎ら、みな唖然としている」としか書かれていません。私は、映像をみて、脚本の「唖然としている」を、織田信長に会う緊張感から、初めてみた清須城が、岡崎城とは違った威圧感のある城、自分たちの城よりも大きい城にみえた、つまり実物よりも大きく見えたことを表現した
327
ようだとか、清須の町を見下ろせる丘はないのではないか、などがありました。このうち、清須城が宮殿のようだというのは、脚本にはまったく表現されておらず、演出の方々があのように映像化したものです。ただ、脚本では「1562年(永禄5年)1月清須城 城門が開いてゆく。到着している元康、左衛門尉、
328
ですので、脚本家古沢さんの物語の展開を、視聴者の皆様がどのように感じられたか、面白いと思ったか、そうでなかったか、ということで、時代考証としてはほとんどいうことがないのです。脚本をもとに、演出、美術、技術スタッフが解釈して映像を作成しています。多くのご意見に、清須城が中国の宮殿の
329
330
今宵はここまでにいたしとうございます😆また次回!
#時代考証の呟き
331
氏真に見切りをつけ、今川との同盟を再考するようになったと考えています。詳しくは、拙著『徳川家康と武田信玄』(角川選書)をご覧ください。今回は、戦国期研究において重要な位置を占める、国衆論が見事に反映され、取り込まれた脚色になっていました。#時代考証の呟き
332
次いで蜂起し、反家康の狼煙を挙げて籠城に入るのです。ところが、氏真は三河に出陣せず、またもや関東の北条氏支援に、今度は自ら軍勢を率いて赴きました。この直後の、永禄6年12月、遠州忩劇(今川への大叛乱)が勃発するのです。私は、これが今川氏の命取りになったばかりか、武田信玄も、この時
333
永禄6年に「三州急用」を全領国に通達し、三河の家康を攻めるべく、臨時課税に踏み切ります。これが領国を混乱に陥れました。それでも氏真は、課税を強行し、軍勢の招集を実施します。いよいよ三河攻めかと誰もが考え、今川方に心を寄せる、松平重臣酒井将監忠尚、幡豆小笠原広重、東条吉良義昭らが相
334
の研究にもとづくものです。詳しくは、黒田基樹『国衆 戦国時代のもう一つの主役』平凡社新書、拙著『戦国大名と国衆』角川選書を御覧下さい。
ところで、氏真が、なぜあれほどに北条氏の支援に邁進し、三河の今川方への手当てを怠ったのかという理由は、いまも謎に包まれています。氏真は、その後、
335
大名と結んでいた従属関係を断ち、新たな庇護者と手を結ぶのが当たり前の行動原理でした。それは、今川氏からみると「逆心」「謀叛」「離反」であっても、国衆ら当事者からみれば「頼りない」「頼みにならない」「当てにならない」であったわけです。こうした見方は、国衆論をリードしてきた黒田基樹氏
336
ています。それにになってくれるからこそ、国衆も戦国大名に軍役、納税などの奉公を行うのです。この双務関係により成立する、戦国大名と国衆の関係を、政治的・軍事的安全保障体制と呼んでいます。ところが、一向に支援してくれない、助けてくれない、となれば、国衆は自ら生き残りを図るために、その
337
(9)家康が今川氏からの自立を決断した背景
家康や松平家中が、今川氏から離叛する決断を下したのは、苦戦する自分たちを、今川氏真が支援してくれないことに、愛想をつかしたというストーリー展開でした。これは事実です。戦国大名は、敵から攻撃を受けた国衆を支援し、その存立を支える責任を負っ
338
人質はすぐに殺されてしまいます。しかしながら人質を捨てる判断を下したことで、結果的に奥平氏は戦国の世を生き延び、譜代大名にまで上り詰めたのです。江戸時代、奥平家は殺害された人質の供養を続けていたと伝えられます。 #時代考証の呟き
339
時代において、貴重な肉声を今に伝えています。興味のある方は、ぜひご一読ください。とりわけ作手奥平氏は、永禄4年に今川から離反した時と、天正元年に武田から離反した時に、ともに人質を処刑される悲劇に見舞われています。人質が処刑されるかどうかは、その時々の判断によるのですが、奥平氏の
340
が詳しく紹介されており、史料の状況がまったく変化していない現状では、今も貴重な成果となっています。本書には、明治生まれの人々が語り継いできた人質処刑の話や、葬られた塚の跡などの証言や調査の模様が書き込まれており、真相追跡の努力が偲ばれます。もう、証言者がいなくなってしまった令和の
341
「富本」になったとの俗説があります。事実かどうかは、私にはわかりません。この人質処刑の実態や、葬られた塚を探究された丸山彭氏の執念ともいえる調査と、その報告は、長篠城址史跡保存館刊行の『戦国人質物語』(同館・1980年)にまとめられています。同書には十三本塚の由来や、祀られた経緯など
342
とは判明していません。著名なのは、山家三方衆(田峯菅沼・長篠菅沼・作手奥平氏)と、野田菅沼氏の人質です。現在、処刑された人々の供養塔が、豊橋市富本町に「十三本塚」として伝承されています。この「じゅうさんぼんづか」が所在することから、地域の地名が「とみもと」と呼ばれるようになり、
343
永禄4年、家康に加担し、今川から離反した国衆の人質については、今川氏真の命令で、城代大原資良が処刑を執行したといわれています。場所は、城下の龍拈寺であったと軍記物などが記録しています。この時処刑された人質は、11人、13人、14人など諸説あり、また誰の人質であったのかも、はっきり
344
(8)三河国衆の人質を処刑した話
三河国衆の人質が処刑された話が出てきました。ドラマでは、駿府にいたとの設定で、築山殿らの眼前で処刑が執行されたように描かれています。ただこれは史実ではなく、それをもとにした古沢さんの脚色です。三河国衆の人質は、吉田城に預けられていました。
345
(7)水野信元が、大高城に在城する家康を見逃すよう信長に懇願したという話
もちろん史実ではなく、古沢さんの脚色です。あのような設定にしたのは、幼少期の信長と家康との関係、伯父水野信元が甥家康を、口ではともなく可愛く思っていること、などを描写するための仕掛けの一つだったことが
346
永禄4年4月11日の三河牛久保城(城主牧野成定)攻撃です。 #時代考証の呟き
347
一揆勃発に参画して、東条城で再起を図り没落しています。なお、今回、吉良攻めをもって、今川氏が「松平蔵人逆心」と認定したことになっていますが、不思議なことに、この時の吉良攻め(永禄4年4月上旬)のとき、氏真は反応していないのです。氏真が、家康の行動を自らへの離叛、逆心と判定するのは、
348
(6)吉良義昭の登場
劇中における義昭の尊大な態度は、三河における吉良氏の名門としての誇り、家格を表現するものです。ドラマでは、東条城が炎上していますが、これは演出です。恐らく、城は燃えておらず、吉良義昭は降伏し、城を出ています。彼は、後に、永禄6年秋、反家康勢力の蜂起と、三河一向
349
かにされました。これは、氏真がいかに家康に期待をかけ、対織田戦で尽力して欲しいと願っていたかを表しています。ですがこのことがはっきりしたのは、脚本が完成した後のことでした。そのため今回は、通説どおりの扱いになっています。#時代考証の呟き
350
(5)築山殿、竹千代、亀姫が駿府で人質となった話
このことについては、また後の回であらためて述べようと思っておりますが、柴裕之氏の『青年家康』角川選書や、黒田基樹氏の『家康の正妻築山殿』平凡社新書により、家康が岡崎に帰還した直後、築山殿と亀姫は、駿府から岡崎に移っていることが明ら