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三河の事例では、家康家臣深溝松平家忠が、天正6年11月11日の軍役着到で、侍85人、中間126人、鉄炮15、弓6、鑓25などと記録されています(『家忠日記』)。三河国衆ならば、深溝松平氏も15挺は装備していますね。大草松平も、数十なんて表現してなかったでしょ?10~20挺程度は保持しているんですよ。
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史料をみていくと、少なくとも永禄期までは、全国の大名、国衆、土豪、山の民、海賊衆、百姓の区別なく、鉄炮の購入を行っています。戦国大名の鉄炮衆は、こうした人々を動員したものです。大名が大量に鉄炮を一括購入し、全軍に装備したというイメージは、小説や映画の見過ぎですね。事実ではないです
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鉄炮は、北条氏の事例から1挺8貫500文で、現在の50~60万円ほどとなる。三河では、米俵1俵=2斗5升入=500文であり、米1石=4俵=2貫文なので、米に換算して約4石分ということになります。それなりに高価ですな。でも当時は猟師が所持して狩猟を行っていますので、一般にもかなり普及してますね。
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戦国期東海の事例をみてみますと、天文16年(家康が人質になったっていわれる時期)の合戦手負注文(遠江天野氏)には、負傷の原因が、弓矢、鑓、刀傷で、矢傷が圧倒的。その後、弘治4年(永禄1年)には鉄炮による戦死者が記録されるようになる。以後は鉄炮が普通に登場する。
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どなたのツィートだったかはわかりませんが、大草松平氏が鉄炮をかなり装備していることを疑問視する意見がありました。当時鉄炮はそんなに普及していなかったのでは?ってやつです。いいえ、戦国日本の鉄炮拡散の速さと数量は、外国人宣教師が信じられないと記録しているほどです。#時代考証の呟き
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火縄銃の取り扱い=時代考証の杜撰さ、という言説が横行しているようなので、ひとこと言わせて頂きます。撮影現場での所作、演出は、時代考証の管轄外です。戦闘シーンにおけるアクションや演技は、殺陣を初めとする皆様が頑張っておられます。 twitter.com/ov6WMkC0HTMktU…
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【お知らせ】告知が出たようなのでお知らせします。来る2月26日(日)、真田中央公民館にて講演を行います。懐かしの真田昌幸です。久しぶりの上田・真田を堪能したいと思います。どうぞ奮ってお越し下さい。袋町で呑むのが楽しみっす😅 twitter.com/ririnndesu/sta…
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アタクシも気配りと、優しさあふれる殿潤様のファンです。皆様の末席に並ばせてくださいませ🙇 twitter.com/totto0830/stat…
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アタクシ、大河解説をあと40回以上やるんだろうか?なんだか、大変なことを始めてしまったような😅😅
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よる家康襲撃は脚色ですが、家康が三河を統一するのがいかに前途多難かを暗示する物語になったのではないでしょうか。
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もともと岡崎城を持ち城にしていましたが、家康の祖父清康に奪われたという因縁を持っています。また、三河一向一揆勃発の際には、一揆方に荷担し、後に三河を追放されました。これならば、今川軍敗北と家康の帰還を狙って、攻撃を仕掛けてもおかしくないだろうと思いました。もちろん、大草松平雅久に
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今川軍撤退を契機に、西三河で反今川の動きが出て、家康が攻められたという設定にすることで、大樹寺の逸話を活かそうというのが今回の趣旨です。ならば敵は誰がいいか、と思っていたところ、古沢さんが大草松平昌久をチョイスしたのです。これは慧眼だと、私は膝を打ちました。大草松平氏は、
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くれました。ここに、氏真を支える家康という新研究がしっかりと取り入れられているのです。ただ、大樹寺などで、家康が敵に襲われたとあるのを、どう表現するかでかなり悩みました。織田軍が岡崎に桶狭間合戦直後に攻め寄せることはありえませんし、水野信元でも不自然です。ならば、今川義元戦死と
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恐らく、今川氏真の許可を待っていたのでしょう。その間、大樹寺に滞在していたことは大いにあり得る話です。家康の岡崎入城は、氏真の許可と要請によるものだというのが、近年有力視されているものです。古沢さんは、こうした新説に配慮してくださり、氏真が家康の無事を喜ぶという設定を盛り込んで
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ただ、家康の旗印は、浄土宗の教えに由来するのは間違いないので、地元に伝わる逸話を大事にして、古沢さんが脚色したのです。ここに榊原康政をもってくるとは、と思いました。『三河物語』などでは、岡崎城に今川方が在城していたので、遠慮して大樹寺に入り、後に正式に城請取を行ったとあります。
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ただ、夢を壊すようで心苦しいのですが、史料で確認できず、史実とはいえないでしょう。このことは、家康が敵に囲まれ、思いあまって父祖の墓前で自刃しようとしたのを、登誉上人に押しとどめられ、かの「厭離穢土欣求浄土」の言葉を教えられたというのも、史実かどうかは確認できません。
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結果が出るのを期待したいですね。
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は、古沢さんのオリジナルです。なお、『三河物語』などでは尾張で人質となった幼い家康は、熱田神宮大宮司加藤順盛が預かったとあり、それが今も伝承されています。ただ、最近、家康は織田へ人質には行っていないのではないかと考える研究者も出てきました。これらは今後、研究が進み、なるほどと思う
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決断し、戸田を通じて送るという設定にしました。いきなり新説を出しても、通説を知っている皆さんは戸惑うだけだと思い、通説にみせかけつつ、新説を潜り込ませる展開にしていただきました。また、信長と家康の出会いと、その後の関係を明示するため、信秀への人質を、息子信長がかっさらうという設定
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送られ、今川が取り返しに動いたことがわかるのです。ドラマで、この時、家康が処刑されそうになったとしたのは、そうした動きがあってもおかしくないと思い、古沢さんが脚色したものです。今回のドラマでは、『三河物語』『松平記』以来の通説にも配慮しながら、織田に広忠が家康を人質に出すことを
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氏の岡崎進軍が遅くなり、織田に先を越されたと考えられます。ですが、広忠は織田に降伏したものの、これを承服しておらず、すぐに今川氏に帰属して、信秀と手を切るのです。今川軍が「竹千代を助けるためだ」と進軍していることも、「駿遠軍中衆矢文写」に登場します。このことから、家康が織田の元に
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いましたが、天文15年末には三河今橋城(豊橋城)を攻略され、今川氏に降伏していたことが明確になっています。つまり、織田に竹千代を手引きするような状況にはそもそもないのです。ただし、息子堯光は、田原城に籠城し、天文16年9月、今川軍を撃退するなど善戦していました。彼の奮戦のために、今川
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差し出さざるを得なくなったと考えられています。つまり、戸田氏なんぞを通じずとも、家康は引き渡されたと思われます。また、田原戸田氏の研究が進んだことにより、「康光」なる人物は実在しないことが明らかになりました。この人物に相当するのは、「宗光」です。この宗光は、松平広忠と同盟を結んで
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さらに、天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状写に「岡崎の城は織田軍が押さえた」と記されており、これが事実と判明します。この驚愕の事実は、村岡幹生氏の論文「織田信秀岡崎攻落考証」(柴裕之編『徳川家康』戎光祥出版所収)で明らかにされました。この結果、広忠は、信秀に家康を人質として