K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(いいね順)

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施したところ、飛距離は100メートル以上、そして夜間での火矢は「真っ赤な炎を吹きながら飛翔する火矢は真っ暗ななかではっきり視認できた。よって、飛行方向をきちんと制御することができると夜の暗闇で遠くに味方に合図する手段としては大変優れていることがわかった」と報告されています。これらは
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〈家康が〉御和睦した。水野信元が仲介役〈扱い=仲裁〉となり落着した)とあるのです。この他に、『参州一向宗乱記』などには、水野信元が軍勢を率いて家康に加勢し、一揆勢と戦ったことが明記されています。『三河物語』『松平記』などは、大久保一族が家康を説得して和睦にもっていったとか、一揆側
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ました。邪教批判を恐れた高田専修寺(高田派)、仏光寺(仏光寺派)は、本願寺と混同されることを不快として、「無碍光宗」を拒否し「一向宗」を自称するのです。いっぽうで蓮如は、「無碍光宗」の宗名には肯定的で、戦国期において本願寺派や一向一揆を「無碍光宗」と呼ぶ事例も少なくありません。
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が詳しく紹介されており、史料の状況がまったく変化していない現状では、今も貴重な成果となっています。本書には、明治生まれの人々が語り継いできた人質処刑の話や、葬られた塚の跡などの証言や調査の模様が書き込まれており、真相追跡の努力が偲ばれます。もう、証言者がいなくなってしまった令和の
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送られ、今川が取り返しに動いたことがわかるのです。ドラマで、この時、家康が処刑されそうになったとしたのは、そうした動きがあってもおかしくないと思い、古沢さんが脚色したものです。今回のドラマでは、『三河物語』『松平記』以来の通説にも配慮しながら、織田に広忠が家康を人質に出すことを
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常の火矢として使用される場合もあり、②味方への合図としても便利で、③風雨にも消えない、という利点があった。三重大学国際忍者研究センターは、科学者も共同研究者に加え、『万川集海』などの忍術書に見える武器の再現実験を行っています。そして、「大国火箭」の再現と飛翔実験を、昼間と夜間に実
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戸田は、家康を永楽銭千貫文(百貫文とも)で売り渡したのだという。このことについても、近年まで疑われることはありませんでした。しかしこの逸話も、近年疑義が出され、ほぼ否定されつつあります。
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異称)に由来するもので、特に蓮如が「無碍光本尊」を信仰の核としていたことから、「一向宗」と並ぶ呼称となっていました。だがこの呼称については、京都五山の禅僧らが、「無碍光宗」を中国の白蓮教徒になぞらえ、蓮如と本願寺を邪教として批判したことから、一向宗の内部で対応がわかれることとなり
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兵糧米の炊出しをして一揆勢を支えたのですが、余った飯を糀にして、秘かに家康にも献上したというのです。そこで家康は、六名村に糀の特権を与えたと伝えています。もちろん伝承でしょうが、家康との関係が面白いと思い、軍役賦課のための帳簿づくりと、動員可能兵力および持参できる武具の内容調査が
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で、彼もまた忠次同様、忍びを雇用していたのでしょう。三河国衆が、広く忍びを雇用していたことを推測させる重要な史料といえます。#時代考証の呟き #どうする家康
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家康は石川家成に命じて重治の遺骸を探索させ、その死を嘆いたといいます。そして上和田に手厚く葬ったと記録されています。諸書によると、土屋長吉重治は享年22。『寛政譜』の土屋重治は享年45。同一人物には見えないのですが、今回は著名な逸話を採用し、ドラマに織り込んでいます。
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遂に発表されたのですね。8月16日に岡崎市で磯統括プロデューサーと「どうする家康」のトークショーを行います。ふるってご参加くださいませ🙇それでは各々抜かりなく😁 twitter.com/mkw_ok/status/…
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近世中期以降にみられるもので、史料として裏付けできないというのがその理由です。ではなぜ氏真は人質交換をしたのかといえば、それは家康方に確保されていた鵜殿長照の息子二人を見殺しにしてしまったら、今川氏の三河における威信の損失に繋がるおそれが高かったからだと考えられます。氏真は、家康
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当然です。古典や史料を読んでいればわかります。学者でなくとも、中学、高校の古文、歌舞伎などを知っていれば違和感ないはずです。 twitter.com/syj2PPG6GT5CRV…
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題なく維持することを、子々孫々においてもよく遵守すれば、そしてこの考えを日吉八幡の御教えと同じように大切にして、国を保てば、朝倉家もまた続いていくことだろう」と述べています。武田信玄・勝頼も、「国家」は「御当家」(武田家当主)の力量によって保たれ、そこに住む家臣、国衆、領民の安寧
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こんなん出ました😅 twitter.com/taishujp/statu…
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この織田信秀による岡崎攻略という事実こそ、近年明らかになったものです。これは、天文16年と推定される9月、越後本成寺(三条市)の僧侶日覚の書状に「岡崎は弾江かう参の分にてからからの命にて候」(松平広忠は、織田弾正信秀へ降参し、命からがら助かったそうだ)とあることから判明しました。
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甲斐国でも、本願寺派を「無碍光宗」と呼ぶ事例が存在します。『勝山記』享禄5年条に「ムケカラ(ウ)宗」が法華宗と争ったことが記録されているのです。これは、山科本願寺が法華一揆と六角定頼軍によって没落させられたことを指しており、武装蜂起した本願寺門徒(一向一揆)の呼称であることが確か
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【お知らせ】拙著『武田氏滅亡』角川選書、5刷1000部増刷決定‼️読む、調べる、凶器よけ、武器など多様な用途があります(キリッ😊引き続き、よろしくお願いいたします🙇
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また「国家」は、戦国大名の領国そのものを指すという意味がありました。例えば、「朝倉孝景条々」に「諸卒を下知し、国家無恙候、於子々孫、守此旨候はは、日吉八幡之御教と混しく思はれ、国をたもち候はは、朝倉名字可相続」(第16条)とあります。朝倉孝景は、「家臣に命令を下し、国家(領国)を問
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告知が出ました。11月24日に、アタクシの新著『徳川家康と武田信玄』角川選書が出版されます。どうぞよろしくお願い申し上げます🙇 twitter.com/sinkan/status/…
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まだ公表できませんが、12月4日の日曜日、空けておいてくださいね。
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なられましたか?実は、第一稿では、「水野殿に××あたりの港をお借りし」とあって、地名が決められておりませんでした。私は第一稿を拝読したときに、駿河から元康の配下が瀬名たちを奪還したら、すぐにそのまま三河の港に入ればいいのに、なぜあえて水野信元を頼ろうというのか、と考え込みました。
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は、その時期がはっきりしないのです。永禄5年2月15日に氏真は、小坂井八幡神社(豊川市)に禁制を発給しているので、軍勢を動かしたのは間違いありません。でもこの時すでに、上之郷城は陥落していました。私は、氏真の三河出陣は、上之郷城救援のためだったが間に合わなかったと考えています(黒田基
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【お知らせ】戎光祥出版は、『歴史研究』という雑誌を引き継ぎ、リニューアルして刊行を始めております。そして遂に、2021年10月25日刊行の第695号(2021年11月号)において特集テーマ「戦国武田氏の新研究」で刊行されることとなりました。160ページ(カラー口絵16ページ含む)です。