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アタクシの知人や仲間たちに、大河絵を描いている方がたくさんいます。皆さん、大河ドラマが好きで、俳優さんたちが好きで、物語が好きで、描かずにはいられない人たちばかりです。画才も凄い。そうして描かれた大河絵が、色々な人たちに新たな感動を与え、製作陣や俳優陣にも伝わり、勇気と作品への twitter.com/keico/status/1…
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重臣で酒井忠次の一族、上野城主酒井将監忠尚が、さらに東条城で吉良義昭、桜井城主桜井松平家次、大草松平昌久などが次々に叛乱を起こしました。これは、今川氏に呼応した反家康叛乱です。そこに、三河一向一揆が重なり、勃発したのです。一向一揆の蜂起には、酒井忠尚や吉良義昭らが使嗾していたと
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勝頼たちの最期の模様が、なぜ記録されたのかということについて、ヒントになることがわかりました。公表されましたら、ご案内しますね。
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考えによると語られていました。この設定について、批判的な論調が見られましたので、コメントをさせていただきます。私は、古沢さんの脚本を拝読して、この設定は戦国期の大名や国衆の当主が意識していたとしてもまったく問題ないと判断し、修正意見をつけませんでした。それは何故か。これを説明する
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天正10年3月10日夜、勝頼は19歳の北条夫人に小田原まで落ち延びるよう勧める。都留郡岩殿城を目指した理由の1つに、北条夫人の実家に近く、彼女を託して最後の決戦をする覚悟だったという。だが北条夫人は頑なにこれを拒否し、勝頼とともに散華することを選ぶ。侍臣に遺髪と辞世の句を託した。
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の使命であり、なすべきことと家康は心に決めたとしています。しかし、そこには早くも、自ら掲げた理想と現実とのギャップに直面し、戸惑い、悩む姿が浮き彫りになります。そのきっかけを作ったのが、上野城主酒井忠尚、東条城主吉良義昭、大草松平昌久の離叛や、一向宗との出会いだったという筋書きで
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『松平記』などにあり、反家康叛乱と三河一向一揆は結びついていたと考えられるようになりました。そこで、単なる三河一向一揆ではなく、三河一揆といわれるようになったのです。ただ、それにしては双方に緊密な連携や、活動があった形跡はなく、家康を潰す最大の好機だったにもかかわらず、酒井忠尚
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黒色火薬の話題で、だいぶTLが賑やかになりました。知らなかったことをご教示頂いた皆様に深謝申し上げます。中世の火薬製造法は、流派のような独自の調合法があり、斉一的なものは存在しませんでした。恐らく、銃兵各自が使用する火薬の調合は、全く違っていた場合が多かったと想定されます←但し、
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ですが、古沢さんは瀬名らが奪還したのが、元康の願いを受けた織田信長との共同作戦、というご自身の設定が込めているのではないかと感じました。元康自らが命じつつも、彼の願いを聞いて、同盟国織田信長が人質奪回を差配し、尾張の水野信元に協力させたと氏真に印象づけることで、織田・徳川同盟対
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みると、永禄6年6月日付の松平三蔵(直勝)殿、清水伝一郎殿宛は「蔵人元康(花押)」、永禄6年10月24日付の松平亀千代(家忠)殿、松井左近(忠次)とのへ宛は「家康(花押)」とあり、永禄6年6月から10月の間に「家康」へと改名したことがわかる。なお、年未詳8月28日付の長澤浄賢(親広)・同源七郎
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そうやってくさしてる大河関連で、金稼ぎしていることに、忌憚なき意見をしたいものですね。参考にしてくれるんですよね。 twitter.com/info_history1/…
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【お知らせ】告知が出ましたのでお知らせします。8月13日、小牧市で開催されます「どうする家康」のトークショーに出演します。小牧・長久手合戦での家康、秀吉、織田信雄のお話をメインにする予定です。奮ってご参加くださいませ。komaki-kanko.jp/newslist/nhkta…
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今までの大河ドラマを全く見てこなかったのでしょうか?それどころか、あらゆる時代劇、歴史の映画、架空の人物オンパレードですよ? twitter.com/aaaaanew/statu…
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もちろん織田の援軍が派遣された形跡はそれまでありませんでした。ところが、永禄6年末から同7年初頭の三河一向一揆戦では、水野勢が派遣されています。これは、信長との攻守同盟が成立していなければ理解できません。このことから、清須同盟は永禄6年3月に成立したとみられますが、家康による清須城
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という自意識に由来するとの設定に、賛意を表したわけです。もちろん、源義家にも由来するとの説はしっかり押さえてあるのですから、何ら問題をないと思います。自分の名前に「家」を冠することの意味を、三河国を一つの家と捉え、そこに住む人々を、身分の上下に関係なく、安泰にすることこそが、自分
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の理屈は、侵略者たる信玄の勝手な論理かも知れませんが、これまで紹介してきた「国家」と大名当主との関係についての意識を知っていれば、こうした理屈が出されてもおかしくないことが理解できるでしょう。このような事情もあり、私は古沢さんの「家康」の「家」は、「国家」を保つ責任を負う者である
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が保障されるのだと繰り返し述べています。戦国史研究では、戦国大名は、自分の領国を「国家」と呼称し、領国下の地頭や民衆に対し「国家」への忠節を説き、動員への論拠としてもいたことは常識の範疇です(勝俣鎮夫『戦国法成立史論』『戦国時代論』)。このことは同時に、大名の当主には、「国家」を
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保つ器量が要請されるとの考えもまた存在しており、器量がなくば離叛も辞さぬという戦国の武家の論理も潜んでいるのです。武田信玄は、後に家康とともに今川氏真を滅ぼしますが、この時、信玄は氏真には「国家」を保つべき資質に欠けていたことが、今川を凋落させた原因だと指摘しています。もちろんこ
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しての意味で用いられています。そして、「一向衆」から「一向宗」への展開は、本願寺派を中心とする真宗が、一宗派として自立し、他宗や武家などから認知されていく過程を示すものなのです。
また、「一向宗」の別称として「無碍光宗」(むげこうしゅう)があります。これは、無碍光仏(阿弥陀仏の
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家康の禁制が存在するのは、甲斐ではすべて穴山領のみ。すでに内通済みでタイミングを見計らっていた穴山梅雪を誘降した時点で、侵攻路にあたる穴山領の安全保障は家康の担当。なのでそうなる。穴山領が味方の地なので進軍は容易なのに、進まない。それは織田が武田本国である甲斐に入るのを待っていた twitter.com/bibouroku1319/…
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「富本」になったとの俗説があります。事実かどうかは、私にはわかりません。この人質処刑の実態や、葬られた塚を探究された丸山彭氏の執念ともいえる調査と、その報告は、長篠城址史跡保存館刊行の『戦国人質物語』(同館・1980年)にまとめられています。同書には十三本塚の由来や、祀られた経緯など
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ほど登場しないからです。ただ『三河物語』は、水野信元が家康のもとに陣中見舞いとしてやってきて、会見をしたとの記事があります。残念なことに、会見の詳細は記されていません。ところが、一揆側だった渡辺守綱が語り残したとされる『守綱記』に「一揆御和睦、水野下野殿扱ニ而相済申候」(一揆と
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アタクシが懸命に調査して、不充分であっても、とりあえずの戦没者リストを作ったのは、長篠合戦の武田方戦没者(『長篠合戦と武田勝頼』所収)と、勝頼とともに落命した男女の名簿(『武田氏滅亡』所収)です。一人ひとりの戦没者を拾い上げながら、ご冥福をいのらずにはいられませんでした。
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マリウポリの一部住民が、ロシア軍により、ロシア領へ強制移住させられているとの新情報。もし事実なら、スターリンと同じ政策が再現されようとしている。住民がロシア人とそっくり入れ替わり、完全併合を目指すのだろう。独立運動の芽をも同時に摘む卑劣なやり方だ。