K・HIRAYAMA(@HIRAYAMAYUUKAIN)さんの人気ツイート(いいね順)

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には一切登場しません。意外に思われる方は多いと思います。例えば、武田信玄の家臣山本勘助、豊臣秀吉の家臣黒田官兵衛などは、「軍師」として名高く、大河ドラマにもなりました。しかし、山本勘助の活躍を描く『甲陽軍鑑』ですら、勘助を「軍師」だとは一言も書いていないのです。彼はあくまで「足軽
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拙著を御覧下さい。また、忍者考証をお願いしています山田雄司氏の『忍者の歴史』角川選書、山田雄司・三重大学国際忍者研究センター編『忍者学大全』東大出版会(近刊)は、必読の研究書です。これらにより、戦国の忍びについての研究は、一挙に進むことになり、いろいろなことがわかってきたのです。
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大将」でした。これらは、すべて後世の創作です。山本勘助を「軍師」としたのは、管見の限り、享保6年(1721)成立の浄瑠璃「信州川中島合戦」(近松門左衛門作)が最初で、これ以後、「武田信玄の軍師山本勘助」が定着していくのです。今回は、一揆側が家康軍に善戦した理由の一つとして、優秀な
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と付け、「おのこ」と読むのと同じです。例えば「太郎男」と史料に登場すれば、「たろうおのこ」→太郎という男子という意味です。名前の下にある「男」「女」の字を、「息子」「息女」と勘違いすることがありますが、それは系譜類の史料にほぼ限られ、文書や記録では男性や女性を指す言葉です。そうい
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ただ、夢を壊すようで心苦しいのですが、史料で確認できず、史実とはいえないでしょう。このことは、家康が敵に囲まれ、思いあまって父祖の墓前で自刃しようとしたのを、登誉上人に押しとどめられ、かの「厭離穢土欣求浄土」の言葉を教えられたというのも、史実かどうかは確認できません。
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今日、調査をさせて頂いた家康文書は、たまたま某書籍に写真が掲載されていたのです。瞬間、1通は直筆の可能性が高いと思い、直筆の写真を集め比較したら、多分間違いないと判断していました。ただ、原本を見ないと判断出来ないので保留していたのです。いゃ~、凄かったですよ‼️#どうする家康
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けっこう多いのです。ここでも、『三河物語』を事例に紹介しておきましょう。まず、刈谷城水野藤九郎信近を伊賀衆が暗殺したというお話し。同書によると、今川方が伊賀衆を呼び寄せ、水野領にやすやすと潜入し、何カ所にも渡って待ち伏せの忍びを伏せておき、遂に水野信近を討ったとあります。水野信近
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えば、私が愛読していた山本周五郎の小説には、女性名の下に「女」が付いて、「~じょ」って読ませていましたっけ。 (参考文献)吉丸雄哉「望月千代女伝の虚妄」(吉丸雄哉・山田雄司編『忍者の誕生』勉誠出版・2017年)、平山『戦国の忍び』角川新書・2020年
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ます。そのため、まともに家康と戦ったことはなかったと考えられます(酒井忠尚は籠城戦に徹しており、家康軍と交戦したという記録がない)。今回強調されている「軍師」ですが、戦国期の日本には存在しませんでした。大将の傍らで、軍事、計略、作戦全般を支える役職といわれていますが、戦国期の史料
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は、古沢さんのオリジナルです。なお、『三河物語』などでは尾張で人質となった幼い家康は、熱田神宮大宮司加藤順盛が預かったとあり、それが今も伝承されています。ただ、最近、家康は織田へ人質には行っていないのではないかと考える研究者も出てきました。これらは今後、研究が進み、なるほどと思う
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これぞ、庶民のイキな抵抗。こういう洒落、見なくなりましたねぇ。江戸時代の庶民は、幕府や藩に婉曲にイヤミを言ってました。これは久しぶりに見た、粋な叛骨です。あっぱれ‼️ twitter.com/masatowatanabe…
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それにしても、フィールドワークがやりにくい時代になった。地図をみながら彷徨い歩いていると、変な目でみられることが増えた。話を聞こうとすると、詐欺やセールスと間違われて、身構えられることも多くなった。いやな世の中になったもんだ。
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今川軍撤退を契機に、西三河で反今川の動きが出て、家康が攻められたという設定にすることで、大樹寺の逸話を活かそうというのが今回の趣旨です。ならば敵は誰がいいか、と思っていたところ、古沢さんが大草松平昌久をチョイスしたのです。これは慧眼だと、私は膝を打ちました。大草松平氏は、
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つけているのか、なぜあの設定にしているのか、を知って頂きたいと思っているからです。それでもダメだ、おかしいという方々もいるでしょう。それは仕方ないと思っています。私が指摘しても修正が叶わないこともあります。しかしそれは、私が仕事をしていない、存在価値がないことになるのでしょうか?
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から和睦の申し入れがあったなど、和睦に至る過程は不明といわざるを得ませんが、私は一揆側だった渡辺守綱の証言である水野信元の仲介に魅力を感じます。
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ただ、家康の旗印は、浄土宗の教えに由来するのは間違いないので、地元に伝わる逸話を大事にして、古沢さんが脚色したのです。ここに榊原康政をもってくるとは、と思いました。『三河物語』などでは、岡崎城に今川方が在城していたので、遠慮して大樹寺に入り、後に正式に城請取を行ったとあります。
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は源氏の流れを汲むと自認していました。この源氏意識は、祖父清康以来のものです。ただ、家康研究の碩学中村孝也氏は、『徳川家康伝』において、源義家の一字を戴いたとする説には否定的です。しかしながら、家康は、元亀3年9月22日、遠江国一宮小国神社に願文を奉納しており、その文中で「私は八幡太
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のですが、戦国大名の当主は、一夫一妻多妾制のもとにあったと考えられがちです。しかしこれは、江戸時代に入ってからのことで、豊臣期までは一夫多妻多妾が基本だったのです。少し詳しくお話ししましょう。まず、当主には正妻(正室)が迎えられます。ただし、正妻(正室)が一人とは限りませんでした
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ませんが、7月説はかなり有力です。 #時代考証の呟き #どうする家康
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多かったとされ、共通しているのは、念仏信仰という一点であり、その構成者は一般民衆はもちろん、山伏、巫女、琵琶法師などの民間宗教者や民間芸能者をも幅広く含まれていました。蓮如は、こうした民間宗教者や芸能者を門徒として迎え入れ、教団発展の裾野にしていきます。蓮如が彼らを受け入れたのは
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宿老石川数正ですら一向宗門徒であり、一揆勃発に際しては浄土宗に改宗して家康を支える苦衷を経験しているのです。切り結ぶ敵味方が、なんと主君と家来だったという展開、そして主君を斬れぬ家来が、自らその刃を身体に当てて死んでいく姿、それに慟哭する主君、三河一向一揆の悲劇を実によく表現して
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郎義家に繋がる者として、弓馬の家に生を受け、それを保持してきた」との趣旨を明記しています。この願文は、武田信玄の襲来前夜のものであり(信玄の遠江侵攻は、同年10月10日)、彼への対決を意識したものであることは、文面より明らかです。ここには、二つの意味が潜んでいるとみられます。一つは、
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永禄4年、家康に加担し、今川から離反した国衆の人質については、今川氏真の命令で、城代大原資良が処刑を執行したといわれています。場所は、城下の龍拈寺であったと軍記物などが記録しています。この時処刑された人質は、11人、13人、14人など諸説あり、また誰の人質であったのかも、はっきり
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決断し、戸田を通じて送るという設定にしました。いきなり新説を出しても、通説を知っている皆さんは戸惑うだけだと思い、通説にみせかけつつ、新説を潜り込ませる展開にしていただきました。また、信長と家康の出会いと、その後の関係を明示するため、信秀への人質を、息子信長がかっさらうという設定
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【お知らせ】突然ですが、明日、高校野球が中止のため、急遽、「歴史探偵 長篠の戦い」の再放送が決定しました。2021年8月13日(金)午後3時8分〜3時53分 NHK総合 全国で放送されます。ご興味のある皆様は、ぜひご覧ください。よろしくお願い申し上げます。nhk.jp/p/rekishi-tant…