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は、永禄3年桶狭間合戦直後、岡部元信によって討ち取られており、この逸話はこの時のものと考えられます。また、来週放送予定の、三河上之郷城攻めに際して、家康は「西之郡之城(上之郷城)ヲ忍取に取せ給ひて、鵜殿長勿ヲ打取、両人之子供ヲ生取給ふ」(上之郷城を忍びたちに攻め取らせ、鵜殿長照を
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恐らく、今川氏真の許可を待っていたのでしょう。その間、大樹寺に滞在していたことは大いにあり得る話です。家康の岡崎入城は、氏真の許可と要請によるものだというのが、近年有力視されているものです。古沢さんは、こうした新説に配慮してくださり、氏真が家康の無事を喜ぶという設定を盛り込んで
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もともと岡崎城を持ち城にしていましたが、家康の祖父清康に奪われたという因縁を持っています。また、三河一向一揆勃発の際には、一揆方に荷担し、後に三河を追放されました。これならば、今川軍敗北と家康の帰還を狙って、攻撃を仕掛けてもおかしくないだろうと思いました。もちろん、大草松平雅久に
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本多広孝(三河田原城主、上野白井城主)・康重(三河岡崎城主)父子です。そして、正明の子孫が正信になります。ですので、彼らは確かに同族なのですが、本多氏はとにかく支族が多く、確かに忠真、忠勝、正信らの時代になると、同族意識が低くなっているのかも知れませんね。正信と他の三河譜代との
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強右衛門が城に向かって叫んだところと、磔にされた場所は違うのですよ。現在の磔跡の石碑は、かつては別の場所だったのですが、飯田線敷設に伴い現在地に移されています。 #時代考証の呟き twitter.com/44_the_hermit/…
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吉良義昭、松平昌久らは原則、籠城戦に徹し、家康とは交戦した形跡がありません。これは今川氏真の襲来を待っていたとみられます。ところが、氏真はそれどころではありませんでした。三河一向一揆が勃発した、同じ永禄6年12月、遠州で氏真に対する大反乱(遠州忩劇)が発生したのです。今川軍が、吉良
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す。自分たち武家を悪し様に言い、阿弥陀仏の慈悲を称揚して人々を引きつける一向宗に対し、家康はならばどうすればいいのか、と率直に尋ねる。だが、納得できる回答はない。ここに、自らの家に、容易にはまつろわぬ集団が存在していることに、戸惑い、その対処に悩み、やがて彼らへの怒りを募らせてい
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今川氏真という対立の構図を、いっそう引き立たせる効果を狙っているのだろうと、私は解釈しました。そこで、どの港がいいか、考えました。そして、中世の太平洋水運および三河湾水運の担い手の一つであった知多半島の南端師崎に白羽の矢を立て、制作陣に提案したところ、採用されたものです。
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3月3日払暁、武田勝頼は、移転したばかりの新府城に火を放ち、都留郡岩殿城への逃避行を開始した。真田昌幸の岩櫃城に行くか否かを迷った末の決断だった。新府城は未完成で籠城戦は出来ぬと考えたからだ。後に重臣土屋昌恒は、ここで力戦して滅亡することが武田家の名誉だったと切歯扼腕することになる
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らです。ドラマの中で、野寺本證寺の境内には、極めて雑多な身分、出自、職業の人々がいましたよね。なかには、盗みや人殺しをした者もいたことが表現されていました。これは、一向衆門徒の実態をできるだけ明示しようという、脚本家古沢さんの意欲的な試みだと思います。
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よる没落化を混同したもの。ただ、田畑の分割を「田わけ」と呼んでいる事例は確かに存在する。その言葉と、「戯け」とが同じ発音で、愚かなことという意味と合致していることから混同されたとみるべきだろう。かつて、史学科に入学したばかりの時、先輩がドラマや映画で、織田信長が「たわけ」という
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山田雄司編・三重大学国際忍者研究センター監修『忍者学大全』東大出版会に収録されている、荒木利芳「忍者の火器・火術」という論文をご参照ください。とにかく、この論文集は凄いの一言で、必見ですよ。ということで、今回の上之郷城における火花のような飛翔物は、「大国火箭」であり、当時の忍びが
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永禄4年4月11日の三河牛久保城(城主牧野成定)攻撃です。 #時代考証の呟き
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時代において、貴重な肉声を今に伝えています。興味のある方は、ぜひご一読ください。とりわけ作手奥平氏は、永禄4年に今川から離反した時と、天正元年に武田から離反した時に、ともに人質を処刑される悲劇に見舞われています。人質が処刑されるかどうかは、その時々の判断によるのですが、奥平氏の
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岐阜県警で出されるお茶は、怖くて飲めんな😅
news.yahoo.co.jp/articles/7150e…
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によると、本多家の祖は、本多助政という人物だといわれます。その息子に本多定通と定正(定政)という二人の男子がおりました。このうち、定通の子孫が忠真、忠勝らになります。いっぽう定正(定政)には正吉という男子がおりました。この正吉には、正経と正明という二人の息子がおり、正経の子孫が
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どのように位置づけるかという、脚本の古沢さんの考え方を知る手がかりになる回でもあったと思います。設定は、永禄6年夏とあります。元康から家康への改名時期については、確実な史料では判然としません。『徳川幕府家譜』によると、改名は、永禄6年7月6日とされています。家康の発給文書から追って
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一揆勃発に参画して、東条城で再起を図り没落しています。なお、今回、吉良攻めをもって、今川氏が「松平蔵人逆心」と認定したことになっていますが、不思議なことに、この時の吉良攻め(永禄4年4月上旬)のとき、氏真は反応していないのです。氏真が、家康の行動を自らへの離叛、逆心と判定するのは、
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信長は、勝頼が「武田大膳大夫」と自称していることを認めていないから。上杉景勝のことも「長尾喜平次」って呼び、上杉とはいわない。#時代考証の呟き #どうする家康 twitter.com/akaru_m/status…