御意です。よくぞこの記事「精神医学を人格攻撃の道具にするな」を書いてくださいました。医師が診察していない人の“診断”についてメディア上で言及しない(もちろん診療中の実患者の事にも言及しない)ことは精神医学の信頼を保つために重要なルールだと思うのです。 news.yahoo.co.jp/byline/haradat…
偏食の強い子の食事のために買い出しにいくと、いつも同じ場所で同じ食材をとって歩いているのに気がつき「自分のせいでこの子の食事が広がらないのかな」とかいう考えが襲ってくることありますが、これ非機能的認知ってやつですから。この子のこだわりを守るのも立派な親の役目ですから。本当です。
この子、クラスメートとは別室で学習を余儀なくされているようなのですが、その理由が「他の生徒に悪影響を及ぼす」とのこと。子どもの学習権よりも髪を染めることを禁じた校則の存在が重要だとする世界線は私にはもうよくわからない。 bunshun.jp/articles/-/537…
「不登校になると将来の選択肢が狭くなる」という信念を発言する大人は実に多いのだが(実際にはそうとは限らない)、そうした発言が子どもの“今の健康を守るための選択肢”を奪う可能性についてほんの少しだけ考えてみて欲しいと思う。将来は今の延長にしかないんだぜ。
インフルだと休めるけど、しんどいからという理由では休めないというカルチャーを変えないとだれも本当には健康になれない気がする。子どもも大人も。
子どもとの会話で「学校で友達って作らないとダメ?」という話題になると、ワイが小中高12年間分の同級生と全く会うことなく生活してもうすぐ20年になる件について話する。友達いなくて後で困るかというとそーでもないが、できれば嫌な出来事の数は1つでも少ない方が良い話もする。お一人様上等。
子に学んで欲しいなら親も何かを嬉しそうに学んでみる。子に身体を動かして欲しいなら親が喜んで散歩に行く。子が謝れるようになって欲しいなら親も叱りすぎた時に子に謝る。子に幸せになって欲しいなら親も過酷な状況から小さな幸せを見つける。と自分用ルール作った。明日は親が休むお手本を見せる。
松本俊彦先生がついに、子どもたちに向けた依存症の本を出版されます。依存症予防教育という枠組みの中で14歳(前後)の子どもたちに伝えたいことを思い切り語り下ろしたそうです。名著の予感しかしません。 世界一やさしい依存症入門: やめられないのは誰かのせい? amazon.co.jp/dp/4309617344/…
子どもたちの夢を聞くときに「何になりたいか」ではなく「大人になったときにどんな休日を過ごしていたいか」を聞き、それも立派な夢として話し合っているとすごく楽しい。そして私も10年、20年後にどんな休日を過ごしていたいかをずっと考え、思いついたらすぐ始めようと思う。自転車も良いよw
私は診療で発達障害の“二次障害”という言葉は使わない。理由は3つ○どんなに丁寧な育児をしても防げない併存症が多い○不適切な対応・逆境的体験による障害ならトラウマ性障害としてみたてる○「早期発見してなかったからやで」「“適切な療育”をしなかったからやで」という謎の信念と結びつくから。
なんでだろう。 調子を崩して長期に休むことをサラリーマンも学生も休職、休学として認められているのに、義務教育の子が長期に休むと不登校として問題行動としてジャッジされて当事者に罪悪感を上乗せされるの なんでだろう。
ルールが嫌いなのではない。「子どもを守るため」といいながら実は大人自身を守るために設定されたルールが大嫌いなのだ。
21連勤務でヘロヘロな日の私は子どもを問い詰め、口論し、子どもが言うことを聞かぬ度に世界が終わりそうな勢いの絶望感を感じた。ギリギリな親にまず必要なのは新しいスキルではなく、それを使えるようなエネルギーを親が戻すための時間的空間的心理的休息に他ならない。さて、どこが提供するか。
「勉強キライ」と言ってる子の中にかなりの割合で「書字がキライ(しんどい)」な場合が含まれていて、切ない悪循環を生み出している。書字活動を最小限に抑えて勉強できるシステムを構築したほうが絶対良いと思う。
「早期発見早期療育で2次障害を防ぐことができる」とよく聞くが、それは①安心安全な環境下で過ごし②子の遊びレベルにあった活動が提供され③親子間の辛いやり取りが減らせて④親子双方の心身の健康が守られた…という一連の流れの結果だったんだろうなあ…と感じるケースに出会うことがとても多い。
不登校状態になっている子に必要なのは「嫌いだけどみんながやってることに取り組ませる」ことではなく「子ども自身が自分に必要だと思ったことを少しずつ取り組む」ことをソッと支援することだと思う。周囲が支援可能な活動は、子ども自身が必要だと思ったことだけ。
不登校状態の子たちの支援・治療に精神医療が関わるのは再登校を促すためでも不登校状態を予防するためでもなくて[不登校状態を健康に生きる]事の手助けにすぎないと思ってます。そこでは再登校のみを目標にする前に学校はその子が[顔を出すに値するコミュニティなのか]を一緒に考えていきます。
僕にとってこどもの学習とは「自分の歩幅に合った“階段”さえあれば、いつまでも登り続けることができる」と言う信念を人生の早期に形成するためのものだと思ってる。
南青山児相建設。こんな意見もでたんだな。「建設反対は、虐待を受けている子供を見捨てる、虐待に加担している行為」胸アツ。 twitter.com/StrongProtestM…
自分が親としてしんどくなったら、なんどでもこの記事を読もうと思う。 futoko.publishers.fm/article/25327/
子育て中は「あの時こうしていれば、今頃状況はもっと良かったのではないか」と思いそうになったら全力で腕立て伏せ20回するくらいイマココの活動に集中するように(助言)してる。これほど生産性がなく心身ともに有害な思考パターンは他にないと思うもん。
幻聴があっても、希死念慮が強くても、子どもたちは最後まで「普通」を装い通常通りの生活を送ろうとします。「普通」を装えなくなったときはもはや限界を超えたとき。学習活動への取り組みにくさをSOSと見るか、批判されるべき態度と見るかで子どもたちの運命が大きく左右されます。 twitter.com/yukichildpsy/s…
部活、受験、習い事、どれも子ども時代の貴重な体験になりうる活動ですが、本来「子が大切にされて→子ががんばる」の順序であるべきところが「子ががんばると→子が大切にされる」という逆転現象が起きるリスクに注意です。
おっしゃるとおりと存じます。自閉スペクトラム症やADHDを持つ子らは多かれ少なかれ強い関心を限局的な分野に向け並々ならぬリソースを投資するのでこれは神経発達症を有する子ら全般の教育に関わる話ですよね。飛び抜けた能力を持つ神経発達症の子だけに支援を「選択と集中」させるというのなら怖い。 twitter.com/izumillion/sta…