「子どもが自立できるように育てないと」「このままではダメだ」という思考が、いやあな気分とともに脈絡なく頭を支配するので困る。「自立して生きるのも良し。誰かの助けを借りて生きるのも良し。そのどちらになっても、あなたの価値は変わらない。」という思考をインストールしたい。がんばる。
「幼児期までに療育しないと大きくなってからは手遅れ」的な発言をはじめ、成人期の行動の問題の原因を小児期の対応に求めるのは誰も幸せにならないからホントやめてほしい。上手く行ったら療育の手柄で上手く行かないのは家族のせいだとでも言うのだろうか。ただでさえ家族は自責的になりやすいのに。
不登校だったりで、社会がキツくなり始めている子に必要なのは社会の厳しさを伝えることではなく、その子が「自分も社会も捨てたもんじゃない」と思える支援。これに尽きるとおもう。
岐阜市。うらやましい。うらやましいよおおお。福島県にも作ってよおおお(涙目)。いや、全国に作ってよおおおお。オンライン授業併用の公立中が当たり前になって欲しい。 forbesjapan.com/articles/detai…
子どもたちにこれ以上何かを禁止しないで欲しい。メシくらい楽しく食わせてくれよ。お願いだから。 news.line.me/list/oa-tokyos…
学校での抗原検査は反対。抗原検査は有症状の場合にしか意味が無い。しかし校内で症状発現した時点でわざわざ検査を行うよりも、即帰宅+受診勧奨が最も安全なはず。恐ろしいのは抗原検査陰性だったから教室に戻りました〜という判断がなされる可能性。検査はあくまで医学的判断とペアで使うものだぜ。
◯一斉休校期間が苦痛で仕方がなかったあなた、ガンガン登校しよう。友達と部活が待っている。 ◯一斉休校期間に今までにないくらい心が安らいだあなた、登校は無理しない。「体調不良」を訴えて登校を自粛しよう。授業を自粛して早退しよう。おうちにいよう。あなたが自粛したくないものだけやろう。
不登校の子って自分史上最強に弱ってるのに周囲の大人たちは「そんなんでこれからの世間の荒波を乗り越えられるのか!」てな具合に社会の不寛容さを強調しがち。そりゃあ乗り越えられるものも乗り越えたくなくなるよね…
これ言われたら親は次の文を3回唱えて心を抑うつから守りましょ。「学校に子どもの能力を超える課題があり、学校を安心して学べる場所と認識できぬような状況がある(あった)ことが不登校の要因であって、家が安心と楽しさに満ちていることはこの子の回復に必要です」 twitter.com/FutoukouKawago…
あああもお、ほんとうにその通りだ。文科省が「私たちは子どもたちが逃げる必要のない学校を作ります」という気がないのだ。「私たちは学校を変えません。だから、これが嫌なら逃げてもいいんだよ」だということになる。 twitter.com/ganymeant/stat…
子どもの苦しさから生じている様々な行動問題が「試し行動」「アピール」などとジャッジされていく過程をしばしば見るけど、それはまるで海で溺れそうになっている子が必死で叫びもがいているのと同じような状況なわけで、辛いってアピールして何が悪いのだろう。応答しようよ。浮き輪投げようよ。
子どもに何かを教えようという職種の人には、是非ご自身が最も苦手とする分野の習い事なり自己研鑽を習慣づけてみて欲しい。自分の未熟さに向き合う時のあの情けなくて頼りない感じに日常的に向き合い続けたら、子どもへの関わりに活きるから。
Clubhouseの不登校関連のルーム見てたら「不登校だってコミュ障でも暗いわけでもなくすごい能力を持った子もいる!目指せ明るい不登校!」的な会話があって…実際コミュニケーションに挫折し暗い気持ちで突出した特技を持たない子達はどうしたらいいんだよ…と、悲しくなった。そっとその部屋を閉じた
私が、子どもが学校に行か(け)ない状況に対して強く悲観せずにいられるのは、かなり長い期間学校に行か(け)ない状況にあった子どもが5年後10年後に自らの健康を取り戻し、安全な居場所を見つけて(幾らかの生きづらさを抱えつつも)生き生きと暮らしている姿に出会う機会が多いからだと思います。
「井上はなぜ子ども(患者)に怒らないのか?」と不思議に思われることが多い。子どもにナメられないように子どもを怒りつける大人より、子どもにナメられても動じずにその子と対話を試みる大人としてそこにいた方が、子どもは自分の課題に気づき、対処にむけて動くことを数多く経験したからだと思う。
これ、私達の業界の関連学会にこそ出してほしかった声明… “文部科学省は、ゲームをプレイすること、インターネット、スマホを使用すること、新聞を読まないことによって発達障害「的」な児童が増えると主張していますが、これは、科学的エビデンスに基づかない記述です” jssba.org/?p=1459
不登校。「多様な学びの確保」はもちろんありがたい。一方で学び自体が難しいほど生きてるのがやっとの子たちが一定数いることも知ってほしい。休むリスクを伝えるより「生きることにゆとりが生まれたときにいつでも学び直せるよ」と伝えないといけない子達が少なくないのです。生き残るための不登校。
子どもに何かしてほしいとき、子どもの属性に紐付けた指示を減らそう。「お姉ちゃんなんだから」「男の子なんだから」「もう○年生なんだから」…指示中に“なのに出来ないのはまずいよ”的な批判的な空気が漂う。「あなたが〜してくれると嬉しい」とだけ伝える方が上手く行きやすいように思うんですよ。
やっと気づいた。不登校の状況にある子どもたちが最初の一歩を踏めるために必要なのは「登校できるようになるさ!」でもなく「登校なんかしなくてもいい!」でもない。「将来どう転ぶからはわからないけど、今はこれでいーべ」なんだ。イマココの自分を今日はそのままで大丈夫と思えれば無敵なんだ。
子どもに向かって「努力が足りない」って言う人いるけど、努力って測定できたっけ…これって、その子が観察者の期待どおりに振る舞っていないと観察者が判断したときに発してしまう言葉であって、結局は「期待に満たない」→「努力が足りない」の言い換えなのだよね。
子どもが自暴自棄な言葉をいうとき。大人はどうしてもその言葉に反論したくなりますが(いや、そんなことはない的な)、むしろ「あーそれ今しんどいやつだよねマジで。」としばしその感情を半分持ってあげたほうが良い時が多いです。
学校に行くのつらい時は誰でもオンラインで授業に参加できるシステムが使えたらいいのに。少しでも体調悪かったらオンライン出席。長期欠席の子に安否確認的な教員の定期的な家庭訪問するけど、そんなのも不要になる。子どもが学校に来ることに拘らず、学びを止めないことに拘ってほしい。
児童思春期の臨床で出会う希死念慮。それ自体を思考や感情の異常というよりは「過酷な状況における当然の反応」として受け止めるべきケースが後を絶たない。
適応障害を説明する時には、患者さんがご自身を「適応すべきものに合わせられなかった自分」のように見て苦しむのではなく「到底適応できそうにない/合わせる必要も無いほど理不尽な環境でたくさん戦った自分」を労ることができるよう工夫したいんです。
仕事で帰りが遅くなりロクな夕飯を作ってやれない自分にイライラして子どもの前で不機嫌になるより、仕事で帰りが遅くなるならモスバーガーでオニポテセット買って帰って、子どもと笑って食べた方がええわ。手作りじゃない食事には批判もあるでしょうけど、そういう事気にするのもうたくさんかな。