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親の機嫌の悪さに傷つく経験が多いと、「不機嫌は人を深く傷つける」と心に刻まれて、自分の負の感情を少しでも出すことができなくなる。いつも笑顔で明るくいようと頑張り続ける。でも「不機嫌という八つ当たり」と「自分の気持ちの表明」は別のものだから出してもいい。全世界の機嫌を伺わなくていい
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感情を認めてもらえない環境下で過ごすと、気持ちがあやふやなまま蓄積され、言語化する機会も少ないためによく分からないモヤモヤが心を占めていることがある。そのためいざ出そうとすると端的な言葉では追いつかないほど複雑でたくさんの苦しい気持ちが雪崩を起こし、コントロールできないことがある
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「自分を守る」には、一定以上の体力と自尊心、自己主張できる環境など、実はいくつかの条件が必要になる。だから理不尽な被害に続けて遭ってしまったり傷つく環境から逃げられないこともおかしいことじゃない。「断る」ことは体力や自尊心を奪われたらできなくなる。「断ればいい」で済むことじゃない
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トラウマ的な環境に育つと「目をつけられないように居る」ことと「生きるためには面倒を見てもらわないと」という適応策が混在して育つことで、大人になって「注目されるのが怖い」気持ちと「見てほしい」気持ちとがうまくコントロールできずに現れることがある。トラウマ反応であり自意識過剰ではない
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機能不全家庭で育つと自分の気持ちを感じる余地がなかったために、大人になって出来事に対する感情を感じるまでタイムラグがあることがある。自分の気持ちを瞬時に理解することは、たくさん経験して慣れていないとその場では分からないことはおかしくない。それだけツライ環境の中で頑張ったという証…
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「嬉しい楽しいことを否定される」ことは、傷つくだけでなく「喜んだ自分は恥ずかしい」という羞恥心を伴う。だから「二度と恥ずかしいことをしないように」と深く心に刻まれてしまう。加えて「恥ずかしい=隠さないといけないこと」となるので癒されない。でも、本当は恥ずかしいことなんかじゃない
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家族療法では、不適応を示した人を「家族内の病理を代表した人」と位置付ける。家族の病理を背負って家族全体のSOSを体現した人。だから「まともだから病んだ」は真実である場合がある。「弱いから病んだ」わけでも「自分の病気のせいで家族が」でもなく、「一家の病理を1人で背負った」ということ。。
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機能不全家庭で育つと、誰かが困っていたり不調を訴えていると「何とかして」と責められているように感じたり、「自分が何とかしないと」と誰かの負担を負おうとし過ぎてしまったりする。。でも、今はもう何もしなくても誰も責めないかもしれないし、肩代わりしなくていい。そもそも自分のせいではない
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子ども時代は「逃げる」という選択肢がない。どんなにつらい環境であっても生きるために居なければならない。そこから逃げることは家や食事も失ってしまう恐怖である。そのため大人になって苦しい環境に置かれても逃げることに無意識に恐怖を感じ引止めようと反応するため耐え続けてしまうことがある…
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虐待や性犯罪などの被害に遭うと失われる「基本的信頼感」についてまとめました。
「基本的信頼感の欠如」は、病の原因になるなど心身に多大な影響を及ぼします。
被害の傷がどれほど深いか世の中の人の理解にもつながれば幸いです。
psychologist-neco.com/basic-trust/
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精神疾患の全てが誰にでもなる病気とはいえない。けれど「適応障害」と「うつ病」は、本当にどんな人でもなる病気。どんなに自信満々でも。どんなに人生うまくいっていても。優しい人もそうでない人も。敏感な人も鈍感な人も。
だから、「なった人が弱い」とか「適応能力がない」とかでは全くない。
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「もっとつらくても頑張ってる人もいるんだから」と自分に言い聞かせるときは、かなり危険な状態。心も体も限界だから「根性」に頼るしかなくなってる証。自分を救えるのは自分だけ。「もっと辛くても頑張ってる人」なんて全く同じ人は居ない。今の自分のツラさは誰と比べることはできない大事なサイン
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人に嫌われることを非常に恐れてストレスを抱える場合、子どものころに親の機嫌に振り回されていたからであることも。親に嫌われたら生きていけない。「そこに居るためには好かれないと」という切迫した生存スキルが対人関係全般で反応していることがある。「気にしない」という軽いレベルでないことも
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すごく大事だと思うことは『思考の歪み』や『過剰適応』傾向があろうと、それが「悪いこと」ではないということ。「それだと自分が苦しいから変えた方がいいかも」ということであって、むしろ自分にストレスを課しながらすごく頑張って生きてきたということ。変えようとする前にものすごく褒めてほしい
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「自分を守る」には、一定以上の体力と自尊心、自己主張できる環境など、実はいくつかの条件が必要になる。だから理不尽な被害に続けて遭ってしまったり傷つく環境から逃げられないこともおかしいことじゃない。「断る」ことは体力や自尊心を奪われたらできなくなる。「断ればいい」で済むことじゃない
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子ども時代に「助けを求めても誰も助けてくれない」という体験をすると、その場でできる精一杯の対処をしても「自分は何もできない」というような無力感と「自分の人生は他者次第」という世界観を抱かざるを得ないことがある。それこそがトラウマ反応であると気づくことが癒しにつながることもある。。
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機能不全家庭に育つと、誰かが褒められていると責められてる気がしてしまうことがある。かつて家庭で「それに比べて」と貶められたことで大人になっても遠回しの自己批判と反応してしまうことが少なくない。そんな自分に更に嫌気が差すことも…。でもそう感じることは無理もないことかもしれない。。
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トラウマとなるような出来事を繰り返してしまうことを「再演」という。性被害に遭った場合や毒親との人間関係などでよく起きる。自ら危険な場所や関係に向かっていくように見えるけれど、それこそがトラウマである証。「同じ体験をして打ち勝たなければ」「危険で怖い関係の方が安心よりも慣れている」
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「自分軸を持とう」という言葉が流行っているけど、もし「他人の気持ちを優先してしまう」としたら、それはそうしなければ生き抜けない時期があったから。かつては自分で自分を助けるための懸命な対処で有効だったはず。そんなしんどい状況をよく生き抜いてくれた自分にまず気づいて褒めて労ってほしい
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子ども時代が苦しい環境であると「耐える」ことしか選択肢がない。そのため、自分の人生の選択意識をしっかり持つことができず「自分の人生は自分以外の他者次第」と無意識に刻まれることがある。意識的には選んでいるかのように「今の環境に耐えてなくては」と自分を叱咤し我慢をし過ぎてしまうことも
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理不尽なストレスで心が強くなることはない。心が強くなるのは自らの意志で前向きにがんばったという場合のストレス。そして理不尽な痛みに麻痺することはあっても慣れることはない。「つらくても耐え続ける」ことが心が強いということなら、強くなる意味はない。そもそも強弱に価値を置くことはない
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「1人で抱え込まずに相談しましょう」とよく聞くけれど、相談できなかったから行き詰まったのではないことがほとんど。助けを求めても助けてもらえなかったから、相談したらもっと傷ついたから行き場がなくなったケースの方が多い。相談する側よりされる側である支援者や親などが注意されなければ(自戒
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機能不全家庭に育つと、クリスマスやお正月は、「楽しいイベント」ではなく「苦しみ」であり、世の中は皆が楽しそうにしているように見えてすごく孤独感を強めてしまうことがある。。でも苦しみは声にできないから目立たないけれど、この時期が苦手なことはおかしいことじゃない。独りじゃない。。
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「自分が考えているほど他人は自分を気にしていない」と思っても人目を気にしてしまう場合、安心感がないからであることが多い。なので「自意識過剰」と捉えてしまうと自己否定が強まるだけのことも。「今いる所に安全感が持てていない」なら危機に備えて過敏になるのは当然。適切に自分を見つけたい…
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「他人は変えられない」って聞くと「じゃあ自分が変わらなきゃ」ってなぜか思っちゃうけど、自分も変わらなくてもいい。どっちも変わらなくていいし、自分もそう簡単には変えられない。変えるべきか真っ先に検討すべきは他人でも自分でもなく環境。次にストレス源となる人との接触回数などの距離。。