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誰かの不機嫌さにひどく動揺し、「自分が何か悪いことしたかな?」と自己関連づけを深めてしまったり、
率先して機嫌を取りにいったりというような「他者の不機嫌さや空気の悪さに耐えられないほど動揺する」メカニズムと対処法をまとめています。
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トラウマ的な環境で育つと「愛情と恐怖」や「苦痛と快感」などの区別がつかず、混乱する。そのことが「恥」や「自己嫌悪」を強めてしまうことがある。喜びや楽しみ、親密さに恥や自責がセットで感じられてしまうことで「何をしても苦しい」となることがある。「傷つき」という表現では言い表せない…
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幼少期の親との体験が「危険と安全」が両方存在していると、葛藤や矛盾を深く抱えてしまうことが多い。その苦しみを緩和しようと自分の体験や感覚は断片化される。まとまりを持てないために中間がなく「白か黒か」や「見てほしいけれど消えたい」といった極端になっていたらそれだけ傷ついたということ
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「自分を守る」のは簡単ではない。ある一定程度以上の体力や「自分は蔑ろにされていい存在ではない」と思える自尊心や、自己主張が許される「構造」など、実はいくつも要因が必要。だから自分を適切に守れなかったとしてもおかしくないし、それ以上自分のことを自分で責めたり否定することない。。
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人は「理由や意味のないことは耐え難い」という特性がある。だから苦しみには特に無意識的に理由や意味を作ろうとする。その代表的な理由づけが「自分が悪かったから」。耐えるためにそう理由づけしていたのかもしれない。。それはそのとき必要だったかもしれないけど、もう手離していい誤解かも。。
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トラウマを抱えていると、自分で自分の調子を整えることが難しくなる。さらに、対人交流においても安心できないために「他者との交流を通して自己調整する」ことも困難さを抱えることが多い。そのため、どうしても孤立してしまうし、苦しみが軽減される機会が得られずに生活が制限されがち。。
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「自分を守る」には、一定以上の体力と自尊心、自己主張できる環境など、実はいくつかの条件が必要になる。だから理不尽な被害に続けて遭ってしまったり傷つく環境から逃げられないこともおかしいことじゃない。「断る」ことは体力や自尊心を奪われたらできなくなる。「断ればいい」で済むことじゃない
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トラウマがあると「ほどよく覚醒する」ことが難しくなり、抑うつなどの「低覚醒」と、イライラや衝動的な行動などの「過覚醒」という両極端を行き来するために、表面的な行動量は少なくても疲労感はかなり重くなる。「何もしてないのに…」ではなく、体は一生懸命調整しようとしている証ゆえの疲労かも
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「ツライときにツラいと言うともっとツラくなるから言わないように」というのは、程度が軽い場合で、気晴らしが可能で言語化できるという条件下で有効。程度が重かったり、自分の感覚に気づき始めたときには「なんとなくしんどい」「ツライ」と言葉にした方がいい。もちろん軽い場合だって言っていい。
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「他人は変えられない」って聞くと「じゃあ自分が変わらなきゃ」ってなぜか思っちゃうけど、自分も変わらなくてもいい。どっちも変わらなくていいし、自分もそう簡単には変えられない。変えるべきか真っ先に検討すべきは他人でも自分でもなく環境。次にストレス源となる人との接触回数などの距離。。
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「怒り」をその場で感じるには身の安全や体力や慣れなどいくつも条件が必要。だから深い傷ほど怒りは遅れて感じられることがある。「なんで言い返さなかったのか」等と悔しい思いを強めることも。でもその時は身を守るために最善を尽くしたはず。。そこから少し回復し、やっと怒りまで辿り着けたのかも
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「認知の歪み」で代表的な「白黒思考」は、自分を追い詰める否定的思考が取り上げられるけれど、「他者を追い詰めるポジティブな白黒思考」も存在する。「つらい出来事には意味がある」「傷ついたから人の気持ちがわかる」etc。これらは本人だけが言っていい言葉。他人が安易に言っていいことではない
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「頑張る」っていうのはけっこうな呪いなのかもしれない。頑張ってなくてもいいのに、「頑張っていないとダメ」という風潮があり、誰より自分がそう思っている。。「頑張ってるかどうか」なんて本当はなんの基準もないのに人を追い詰める。「頑張らないと」と思う分だけ「本当は苦しい」の裏返しかも…
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虐待的な環境で育つと、否定的感情に圧倒されるだけでなく喜びや休息などの肯定的な感情もトラウマになる。喜びや笑いは罰せられ、リラックスは攻撃される隙になってしまったかもしれない。そのため自分の楽しい感覚に気づくことすら傷ついていることもある。肯定的な感情に恐れを抱くことは無理もない
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幼少期に被害に遭うと「人生を楽しむ」という発想がない。どういう感覚かも分からない。「人生は楽しんだ者勝ち」的なフレーズにぽかんとし、周囲との差に孤独感を強めてしまう。自分の苦しみが客観的にはどの程度なのかも健康を知らないから分からない
だから本当に生きてるだけでがんばってる。。
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「言い訳するな」というのはただの根性論で人を傷つける。相手にとって都合が悪い「事実」は「言い訳」と返されてしまうことがある。「言い訳」という言葉自体がネガティヴだからこちらが悪いと思ったり責められた気になってしまうのはおかしくない。でも「言い訳」じゃない。「事実の表明」をしただけ
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トラウマの傷は深いほど自分の感情からは遠ざからないと生きていけない。「自分の気持ちを大事に」「自分に優しく」ということは、かつては被害の危険性にすらなったかもしれない。だから自分を否定し優しくできないとしたら、その能力がないのではなく、かつて精一杯自分を守った強さの証であることも
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「怒り」をその場で感じるには身の安全や体力や慣れなどいくつも条件が必要。だから深い傷ほど怒りは遅れて感じられることがある。「なんで言い返さなかったのか」等と悔しい思いを強めることも。でもその時は身を守るために最善を尽くしたはず。。そこから少し回復し、やっと怒りまで辿り着けたのかも
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親の機嫌を伺って過ごすと、すごく苦しくても「不穏な空気を出す人」の方に慣れてしまう。他者の不機嫌さを「どうにかしなきゃ」と考える回路ができ、人の不機嫌さで頭がいっぱいになる…。その不機嫌さが直るとホッとし、また不機嫌さに囚われる繰り返しになることがある。でも「自分のせい」ではない
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トラウマがあると「乗り越えないと」「あの時に比べたらマシ」といった思考になることで自分を酷使してしまいがち。自分の痛みに鈍感なために病気になるほど頑張っても「大したことじゃないのに…」と自己否定を強めてしまう…。「大したことない」という思考より微かな不快感を信じていいかもしれない
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虐待や性犯罪などの被害に遭うと失われる「基本的信頼感」についてまとめました。
「基本的信頼感の欠如」は、病の原因になるなど心身に多大な影響を及ぼします。
被害の傷がどれほど深いか世の中の人の理解にもつながれば幸いです。
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自己肯定感が低いこと自体よりも「自己肯定感が低い自分はダメ!高めないと!」という考えのほうが自分を追い詰めていることがある。
自己肯定感なんて結局のところなんだっていい。振り回されなくていい。
「自己肯定感低いけどなにが悪い」くらいに思えたら、素晴らしい自己肯定。
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感受性が強い人は「他人の感情がそのまま伝染する」から「気にしない」では済まない。場合によっては本人以上に痛みを感じている。感情の中でも「不機嫌」「攻撃性」は特に波動が強いから近くにいるだけで傷ついてしまう。でもそれは自分のせいじゃない。痛みが分かるから優しさも人一倍なことが多い。
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無力な子ども時代に、暗黙のうちに家庭内で何かの役割を課せられて、「それを果たさないと居てはいけない」というような恐怖を体験していたら、大人になって他者からの些細な指摘を「全否定された」「嫌われた」等と受け取ってしまうことがある。。それは子ども時代の恐怖の自動反応かもしれない。。
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「過剰適応」とは、自分の許容範囲を越えてまで適応すること。いわゆる「良い子」に多く、本人はすごくツライのだけれど周りには気づかれにくい。自分がツライことが周りに知られることも罪悪感を感じるので、隠して笑顔で元気に振る舞うけれど本当は限界。。なので「あの人は大丈夫」というのは危険。