XG、アジア系アメリカ人の若者たちの間で超盛り上がってる。画期的とか熱狂的ファンというよりは、曲とパフォーマンスが「見てて・聴いてて」気持ち良いし、グループの深い事情を知らなくても楽しめる。メンバーも人間離れの超人とかではなく、普通の子だけどクオリティが高くて安心して見られる。
追記するなら、元からpolitically correctというのは左派でも皮肉を込めて使っていた言葉であり、「人権に配慮」という意味合いを直接持ったことはない。常に差別したい人たちが反差別を「ポリコレ」と嘲笑してきたわけであって、単なるdiversityを「ポリコレ」と呼ぶのは根本から全て間違っている。
「ポリコレの押し付け感」ってすごいフレーズだよな。自分が今まで差別できていたのが罷り通らなくなったのが嫌なだけなのを、ただそこに実在する人を可視化するだけで「押し付け」って。そういうマイノリティの人は今までずっと「マジョリティの押し付け感」の世界で生きてきたわけだけど、マジで何様
自分が差別的である自覚はあるけど、「差別」が悪いことは理解している。だから自分が作品を「嫌いだ」と感じる理由を「ポリコレに屈する」側のせいにし、自分たちの消費者としての優位性を示す。その嫌悪感の由来を辿れば、強烈な差別心であることは明確なのだが。
日本語でいう「ポリコレ」は、political correctnessではなく、アメリカの超保守右派が使う「woke」と同じ。有色人種、ジェンダーマイノリティ、女性を起用した広告に片端から「woke」とバカにしたり、超保守であるイーロンマスクが女性社長を起用しただけでwokeと批判したり、これまた意味を持たない
要は「ポリコレ」などもはや架空の概念ともいえる。それなのに自分の気に食わないもの(マイノリティを描いたり、人権に配慮した作品)を「ポリコレに屈した」と批判点を作り上げる。多様化する社会を反映した「現実」でしかないのに、その「現実」を否定するのは、自分の差別意識の居心地が悪いから。
「反ポリコレ」というと聞こえがいいが、要は「非人権派」「差別に賛成」と同義であることは自明。マジョリティ特権を維持したい、自分たちが中心の世界以外は認めない、と、それ自体が大きな政治主張であることを忘れてはならない。
「ポリコレ」という言葉がもう意味を持たなくなっている、ということを書いた2016年の記事。「ポリコレ」を「マイノリティの人権に配慮」と考える場合、トランプは「反ポリコレ」、つまり旧来的なアメリカの特権階級(白人)意外の人権に配慮しないことを、胸を張って主張した npr.org/sections/codes…
「ポリコレ」にまつわる議論、ほとんどが「ポリコレ」という言葉を正しく使っていない。Political correctnessとdiversityとrepresentationを全てごっちゃにしてるし、そもそもアメリカではpolitically correctという言葉はもう全く使われない。
いじめを訴えて声を上げる被害者が「クラスの和を乱していて迷惑」と非難されるのと同じ構造。ロジックも社会的正義も放棄した、「面倒なことをノイズとして排除する」ファシズム統治。
差別主義者/国のリーダーが「分断しないように」とか言ってるの、クラスのいじめっ子主犯者が「みんな仲良く☺️」とか言ってるのと同じくらい意味不明。 「分断」とか「我慢」とか、自民党教育を受けてきた人にとっては聞こえの良い「道徳的」フレーズを使ってるのも。
これは「アジア系アメリカ人」の一世、二世のあるある文化を凝縮したシーン。そのgenerational traumaの観点がないと、確かに単なる「家族賛美」の絵に見えるのかもしれないけど、あれは押し付けるタイプの感動ではなく、非常によくあるのに可視化されない経験をリアルに描いているからすごいと思った twitter.com/madanaizo/stat…
イギリス王室のことでキャッキャ言う前に、植民地支配を受けていた国の人、そしてイギリス国民の声を聞くべき。 この王冠の全ての宝石は、アジアやアフリカの植民地から略奪されたもの。今に至るまで「返せ」と声をあげている。 twitter.com/dress_holic/st…
華やかなところだけを切り取ってファッション的にキャッキャと消費し、素敵だとありがたがることに込められた暴力性に、無自覚でいることは恐ろしいと思い。白人至上主義、権威主義を「優雅な王族」のファンタジーで正当化。
イギリスの戴冠式。植民地から盗んだ宝石で着飾り、ファシズムに反対する声を抑制し、貧困と格差に苦しむ国民を踏みにじる豪勢な虚構。差別主義者やエプスタイン繋がりの罪で公職から追放されたはずのアンドリューまで参加。イギリスの街中ではプロテストが繰り広げられ #AbolishMonarchy がトレンド。
映画の席の件から見えるのは、過度な「マナー」への執着といきすぎた資本主義による相互監視・競争意識。個人の価値観に基づく善悪ではなく、理由も分からない「社会規範」に沿うことが善良な市民だと教育された結果、「マナー・ルールを守っている真面目な自分」が損するのが絶対許せないという構造。
「ニュースメディアは、センセーショナルな見出しで、ホームレス状態の人は暴力的で人間離れしており、暴力を受けるべき対象だと思わせる。人間性を奪われ、生き残るために必死な人々を撮影し、あざけり、憎むことを促す。恐怖の扇動だ。」 twitter.com/Marxist777/sta…
*拘束 苦しんでいる人の苦しんでいる声を塞がれ、殺され、殺した人はヒーロー扱いされる。そもそも苦しんでいる人がいること自体が社会の失敗であり、彼らはそのシステムの被害者。相次ぐ「マイノリティ」の迫害からは、アメリカ社会に根強く残る差別とヘイトを正当化する残酷さが見える。
お腹が空いた、住む場所がない、辛いと叫ぶ男性は、「心地が悪くなるから見たくない」存在かもしれないが、彼にも生きる権利がある。誰かに危害を加えたわけでもない。殺した側の白人男性は無罪。家がなくて苦しんでいる人も、ケアを与えられる権利がある。相互監視社会は、全員に冷たい。
ニューヨークの地下鉄で大声を出していたホームレス状態の黒人男性が、元海兵隊の白人男性に首を15分間チョークホルド(圧迫梗塞)され死亡。この事件で今アメリカのツイッターは大荒れになっている。最近相次いでいる「ちょっとしたことで銃撃」の流れにも繋がる、アメリカの有毒な側面が浮き彫りに
人種差別の話に対して「気にならない」「やり返せばいい」とか、いじめの話に対して「気にしすぎ」「言い返せばいい」とか、考えすぎなやつが悪いみたいな良い方が蔓延しているけど、それこそ人権教育をされなかった結果として生まれる「自尊心」が欠如した、自分の人権をも主張できない国民性。
Coachella(そしてアメリカのフェス全般)、飲食がまじで高い。ブリトー2個とコーヒー2杯で64ドル。日本円で1万円くらい。これが現実!!!
めちゃくちゃリアルなコーチェラ記、アメリカのZ世代の「全て」が詰まってて全シリーズ見て爆笑してる
コーチェラに限っていうならばあれは「トレンディさ」が命のフェスで、他のフェスとは桁違いのSNS反響重視運営で成り立ってる。Ethel Cainやboygeniusをはじめとしたクィアアーティストの起用やbad bunny/Rosaliaなどのラテン系、有色人種のアーティストなどは要は「ネットで人気」だから起用される。 twitter.com/yossy1031_m/st…
落日飛車、コーチェラで出演で間違いなく台湾カルチャーの歴史を残すでしょう。「My Jinji」とかはアメリカ人でもインディーポップ好きのオシャレな人はほとんどみんな知ってるし、何よりも何度見てもパフォーマンスが完璧で「また観たい」と思える。たくさんの人が「大好き」と思える特別さがある。