山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(リツイート順)

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徳川慶喜邸 〜徳川慶喜撮影による〜 小日向第六天町(現在の文京区) 徳川慶喜没 約30年後、ここで母が産まれました。
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徳川家から高松宮家へ 公爵徳川慶久次女(長女は夭折)の喜久子さまは、生まれながらにして運命を背負われ、昭和天皇の弟、高松宮宣仁親王殿下にお輿入れされました。本当に美しく、心の素晴らしい方でした。 しかし妃殿下の本当に素晴らしいところは、その後のご活躍でした!
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結婚する時、母から受け継いだ真珠のブレスレット 高松宮喜久子妃殿下から姪である母に結婚のお祝いに贈られた品で、今度は私に。 当時はあまり深く考えずにいました。今は反省と感謝です。 品物そのものではなく、品物に込める気持ちが何よりも大切。 #遺品 #徳川家
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母の父〜徳川慶光 母の母〜徳川和子 祖父の父〜徳川慶久 祖母の父〜松平保男 祖父の祖父〜徳川慶喜と有栖川威仁親王、 祖母の祖父〜松平容保と水野忠敬 母は何という家に生まれたのだろう
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徳川慶喜が20年暮らした屋敷跡 浮月楼に来ています。 こういった時、子孫はどうゆう感想か聞かれるのですが まぁ懐かしい!! とはならず、申し訳ないです^^; 10年くらい前に初めてここの存在を知りました。 #浮月楼 #徳川慶喜屋敷跡
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昨日のうちに見られなかったので、NHKプラス(iPad)で観ています。 祖父の慶光(慶喜の孫)も叔父の慶朝も本当に心優しい人でした。 慶喜の優しい姿にさもありなん。 慶喜の母は有栖川宮皇女吉子様。水戸家に嫁がれました。 #大河ドラマ #青天を衝け #徳川慶喜 #草なぎ剛さん
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徳川慶喜公は、明治時代、様々な所に旅をされ、趣味でもあったので、沢山写真を撮られました。 福島県にある有栖川宮別邸 天鏡閣へもお出かけになりました。 叔父が生前、徳川慶喜撮影写真集を出版した事は、家に伝わる慶喜家資料公開の一石でありました。
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徳川家に限らずなのですが、子供が産まれたら、名前とは別にお印というのがあります。 皇族で知られているとは思いますが。。。 祖母のお印は「まり」でした。 「まり印」のまり柄の風呂敷。 今も大切に使っています。
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大河ドラマで、徳川斉昭役に竹中直人さんと発表された時、いやはや!さすが!! と、思いました。 生まれ変わりのようなクリソツ感! 竹中さんのお写真@exiteニュースより #晴天を衝け #竹中直人 #徳川斉昭 #徳川慶喜父
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幕末というのは、歴史の宝庫ですね。 徳川慶喜 公爵授爵の写真と 麝香間祗候時の正装 和装から洋装の時代
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徳川家の親族は、徳川家の空気感を共有しています。 その中で、お互いの立場を理解と配慮がありました。 見えない歴史でもあり、学芸員がそれを知らず一線を超えると、あぁ、解ってないな。。。と徳川家の信用がなくなります。それが何より怖い。知識の問題ではない所が歴史の中にあります。
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徳川のニセモノ、ネットでも時々見かけます。 この人誰だろう??きっと本名違う人。 葵交会、徳川家の家系図が語れない人は怪しいデス。
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祖母の実家、会津松平家は子爵家で、東京の小石川区第六天町に家族で住んでいました。母は水野家から来た進子(ゆきこ) 公爵徳川慶喜家当主慶光との縁談が持ち込まれ、お見合いし結婚。 当時の会津松平家は洋館で立派な家の佇まい。 祖母は「同じ町内で結婚したのよ」と話してくれました。
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戊辰戦争で 会津鶴ヶ城落城の折 これだけは敵に渡すには惜しいと 刀で切り取った襖絵 泰西王侯騎馬図 会津松平家より寄贈 現在はサントリー美術館所蔵 (重要文化財) 去年の所蔵展で見に行ってきました。
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徳川慶喜の息子、徳川慶久と孫文との交流の証 この時代、お互いの写真を贈り合う事も交流の一つとされていました。 きっと孫文の方には徳川慶久の写真があるかと思います。 江戸時代その後の話です。 日本の平和を何よりも願っていました。
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大河ドラマの音楽、演奏はNHK交響楽団で指揮は尾高忠明さん。 尾高さんは渋沢栄一さんの祖孫さん。 N響(新交響楽団)の始まりは大正15年。渋沢栄一が活躍した時代。 過去から現在に繋がり、そして未来に!! 物語は続いています。 #大河ドラマ #青天を衝け #音楽 #N響
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大政奉還図 邨田丹陵(むらたたんりょう) 2枚目は左より 邨田画伯、徳川慶光、榊原喜佐子、井手久美子 徳川家と邨田画伯はかねてより交流がありました。 祖父の所有だったこの絵は明治神宮に奉納。 大政奉還により現代社会につながっていきました。 井手純おじ様のTwitterよりお写真拝借
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代々の徳川将軍の中で 神道だったのは 家康と慶喜のみ 2代〜14代までは仏教 東京の増上寺と寛永寺にそれぞれのお墓があります。
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歴史は本や資料からの知識ではなく。 家に語り継がれた昔話から。 徳川だけでなく、どの家にも。それが本当の歴史 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し 堪忍は無事長久の礎 及ばざるは過ぎたるより勝れり 東照宮送別 慶喜書
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徳川慶喜公は静岡から東京に引っ越し、公爵となってからは、各方面から会食の招待があり、その時のメニューも残っています。 その招待券、メニューの向こうに華族の時代や文化、生活というのが見えてきますね。とても風情があります。
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明治44年日本橋開通式の招待状と式次第 東京市長 尾崎行雄氏よりご案内がありました。 江戸時代が終わり、現代社会が作られてゆく一つの出来事ではないかと思います。こういった資料を目にする事により、歴史が生きてくるような気がいたします。 日本橋は幼き頃から憧れの場所でした!!
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母から受け継いだ ダイヤと真珠とエメラルドをあしらった帯留め 高松宮妃喜久子殿下からダイヤとルビーのカルティエのブローチ お互いを思う心と共に、永く沢山の方に共感していただければと願っています。 宝石には心が宿ります。
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徳川慶喜の妻 美賀子の葬儀の列の席次表 こういった式の序列は 故人との関係性が伝わる史料であり 生涯を通じて、美賀子を 守り続けた徳川慶喜の姿が 見えます。
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徳川慶喜家の資料には貴重な物が多く、その一つに 烈公御真翰(れっこうごしんかん)があります。 烈公(徳川斉昭〜水戸徳川家当主〜徳川慶喜の父)より 一橋徳川家当主となった息子慶喜への手紙集 その時、父は何を思ったか。 慶喜は父の気持ちを大切に思い、装丁し、桐箱に入れました。
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徳川慶喜と正妻美賀子は、仲が悪く、別居していたみたいなコトを聞かされ、モヤモヤしていましたが 明治5年から美賀子の危篤直前までの22年間、静岡で一緒に暮らしていました。 また慶喜も大切な人として対応していた記録がありました。 こうゆうのを見つけると嬉しいです。 #家扶日記