山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(リツイート順)

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徳川慶喜家の人たちは本を書く文化があります。 私も書きましたが、私の代で最後かと。 後は子孫ではなく、歴史家の方にお話いただく。 それも一つの家を閉じるということかと思います。 物事は各方面から見ることにより歴史が立体感を持つと思います。 #徳川慶喜家
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人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず 不自由を常とおもえば不足なし 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし 堪忍は無事長久の礎 いかりは敵と思え 勝つ事ばかり知りて負くること知らざれば害その身にいたる おのれを責めて人を責むるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり
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徳川慶喜は明治後半になって皇居に招かれ、天皇皇后両陛下と食事を共にしました。 昭憲皇太后(明治皇后)が慶喜にお酒を注ぎながら 「これで私も心の荷が降りました」と。 両陛下は徳川慶喜の事をずっと気にかけてくださっていました。
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徳川慶喜家には家範(かはん)といって、徳川慶喜家が定めた家のルールみたいなものが残されています。 慶喜本人が丁寧にしたためました。 子孫繁栄を願っての事ですが、明治35年(1902)から約120年間の時代の移り変わりはとても激しいと思います。 家族の歴史を日本の歴史に。。。
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明治41年6月9日 明治天皇との会食への招待状。 赤字は徳川慶喜直筆 徳の字は一本線が入るのが、正しい形。 御陪食とは天皇陛下との食事の意味 メニューも残しており、大切にしていたことの顕。
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渋沢栄一さんは徳川慶喜公伝という伝記を出版してくださいました。大いなる尊敬がないと出来る事ではありません。 徳川慶喜は本当に我慢の人生でした。鳥羽伏見の戦いの臆病者 と言われ続け、ずっと黙って受け止めていました。人民の命は己の立場より貴重である。 #徳川慶喜 #渋沢栄一 #晴天を衝け
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祖母から受け継いだ松平の色留袖 母から受け継いだ徳川の振袖 この他、菊の紋が入った高松宮妃殿下の着物があり、大切にしています。 着る物も昔と今とで概念が変わって来たかも知れません。 日曜日の橿原での講演会には色留袖を着つけていただく事になりました。
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祖母の着物。結婚する時、美喜ちゃんにと。。。 祖母の実家、会津松平家のご紋付き色留袖。 徳川家、松平家は三つ葉葵が家紋ですが、会津松平家、徳川慶喜家、微妙に違います。 徳川家は12家あり、慶喜家、一橋家、水戸家、宗家などそれぞれ違う家紋です。 #会津松平家 #徳川慶喜家 #葵の御紋
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アメブロを投稿しました。 『徳川慶喜家 第五代目当主』 #アメブロ #徳川慶喜家 ameblo.jp/yamagishimiki/…
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徳川慶喜が寝床に入るシーン。 慶喜は寝相が悪くて、直すために父、斉昭の教育で、両側にカミソリを置いて寝かされてたとか。また右手を下にして寝る。万が一襲われても利き手である右手を守るため。。。 #大河ドラマ #徳川慶喜
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徳川家の銀の箸 一橋家時代、将軍時代には毒殺の可能性もありました。 食べ物に毒が入っていると銀の箸は変色します。 暗殺という恐怖を抱えながら生きなければならない人生は、たとえ将軍になったとしても幸せでしょうか。。。
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徳川慶喜の息子と 勝海舟の孫娘が 結婚しておられるコトは、意外と知られていない事実。 勝家に婿養子に入った精(くわし)様 結婚は今とは違った深い意味がありました。 時代の流れ。 このツイッターで 一族の方と出会えたコトは嬉しい出来事でした。 いつかお会いしてみたいです。
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祖父母の結婚 徳川慶喜家と松平容保家 徳川慶喜はむしろ政治家でした。その慶喜が語ったのは 「松平容保はまことの武士であった」 時代を超えての結婚は平和を望む声でした。 祖母の嫁入りには懐刀がありました。 自分を守るためではなく、家の恥になるような事があれば、自害できるよう。
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日本経済新聞 2021年3月4日夕刊 社会面
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徳川慶喜の別名は興山公 慶喜は絵画にもいそしみ、油絵が何点か残されています。 オランダの風車 海外に行ったことがなく、しかしながら外国への憧れは強かったのではないでしょうか? 。。。めちゃうま!!( ゚д゚)
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徳川家親族で食事をしました。 松戸徳川家ご当主(徳川昭武〜民部公子さまのひ孫) 徳川文武さま 徳川慶喜のひ孫 井手純叔父様 時代を超えても交流が持てる事に感謝です。 お互いの立場の理解があります。 素晴らしい方々と午後のひととき。
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1993年2月20日 祖母が母の結婚式の為にあつらえた振袖を着て、結納を交わしました。 この2年後、母は長い闘病生活の末、53歳で亡くなりました。 そして今年、私は53歳になります。 母に嫁入り姿を見せる事が出来て良かったです。 #結納 #徳川家振袖 #親孝行
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渋沢栄一による徳川慶喜公伝の稿本 中に添削も。 そしてこの伝記を編纂する渋沢栄一へのインタビュー本として、昔夢会日記があります。 (大久保利兼〜大久保利通の孫による) どれだけの思いが詰まっている事でしょう。
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徳川家のアルバム カメラ好きだった徳川慶喜のアルバムには時代を顕す写真が数多く残されています。 家族の思い出としてめくるか、他人が史料としてめくるか。 家族の歴史を日本の歴史にする事は、意義のある事と理解しますが、同時に家族にとっては哀しさも含まれます。
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ナポレオン3世より贈られた 軍服を身に纏った 徳川慶喜 激動の時代でした。 #青天を衝け #徳川慶喜
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徳川慶喜の息子、 徳川慶久(右)と学友であり、親しき友である 日本初オリンピック選手 三島弥彦さん 友情の印であるプリクラならず 写真館で撮影されたツーショット写真。 いよいよ開幕ですね。
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徳川慶久さまと実枝子様がご結婚の際の明治天皇陛下からの勅許 有栖川宮実枝子女王は皇族だったので、ご結婚の際には天皇陛下からの勅許をもって、結婚が整います。 この二人の結婚は時代を語る大切な縁談であり、万感の思いをもって多くの人に祝福されました。
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そして、徳川慶喜の孫と 松平容保孫が結婚したことは どれだけの人の心乗せてきたかと思います。
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1964年、母が徳川家から出る時、祖母が娘にしてあげられる最後の事として、徳川紋の振袖をあつらえました。 戦後、徳川家の最後のプライドです。 その着物で1993年に今度は私が結納を交わしました。 着物には愛が宿ります。
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将軍 徳川慶喜から 時を経て 公爵 徳川慶喜へ この人ほど、時代に翻弄された人はいないのではないでしょうか。 生まれと育ち、そして本人の努力が、自分の意思とは違う方向に翻弄され続けた人生だったのかも。 本当の命の大切さを知っているのは、徳川慶喜と昭和天皇陛下かも知れません。