山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(古い順)

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祖母が、頭の中にしまっておく訳にもいかないと言って、書き溜めた原稿がありました。 華族の暮らしや、昔の風習が現代に蘇るような内容、 私が時代的背景などを追記しました。 何となく徳川家、松平家の空気を共感していただけると嬉しいです。大河ドラマを見る目が少し変わるかも。 #青天を衝け
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幻の徳川勲章 諸外国では国が勲章を授ける事をしていたので、薩摩が勲章を作る事により、薩摩藩が海外では国として認められようとしつつありました。 それに対抗し、幕府も徳川勲章というのを作ったのですが、大政奉還を迎えたので、受賞者のないまま、幻となってしまいました。 写真はレプリカ
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徳川慶喜は大正2年11月22日に風邪をこじらせ、77年に及ぶ波乱の人生の幕を閉じました。 徳川慶喜が日本にもたらした功績を讃え、旭日桐花大綬章が授けられtました。 そして公爵徳川慶喜家は7男の慶久に受け継がれました。
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徳川慶喜家の史料は山ほどありますが、研究が進んでおりません。それまで家の史料だったので、それを公開するには様々な配慮が必要ですし、家族の写真を公開するのも、心の中で大きな一歩が必要とされます。徳川慶喜家一家。父、慶久亡きあと。左より喜久子、久美子、実枝子、喜佐子、慶光
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徳川慶喜は様々な趣味があり、囲碁も嗜んでおりました。 華族の中で番付表まであるほどの囲碁愛好家の面々。 そうそうたるメンバーが名を連ねています。 慶喜は大政奉還後、遊び呆けていたと勘違いされますが、囲碁を通じて何かが動いたかも知れません。
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徳川家のハンコ 印は色々と種類があり、残っているのですが、これは象牙で天使の彫刻が施され、葵紋に装飾が施されているので、フランスで作られたものではないかと思っています。
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徳川慶喜公は静岡から東京に引っ越し、公爵となってからは、各方面から会食の招待があり、その時のメニューも残っています。 その招待券、メニューの向こうに華族の時代や文化、生活というのが見えてきますね。とても風情があります。
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「青天を衝け」では草なぎさんの演じる慶喜公、とても似ていると思います。 慶喜公はとにかく争い事を避けるべく、悔しいと心の底では思いながらも遠慮深く、自分の立場より平和を望んでいた人。 周りの方はあまりに忍びなく、それを良しとしなかった所があったかも知れません。
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復讐からは復讐しか生まれない。 桜田門外ノ変〜天狗党征伐 徳川慶喜は断ち切りたかった。 争う事は不幸しか生まれない。 私の言葉で言うと 「ざまあみろ」からは何も生まれないのです。 悔しさ秘めた涙を共する我慢の向こうに 新しい世界がある。 #青天を衝け #徳川慶喜
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4世代 慶喜〜慶久〜慶光〜慶朝〜美喜 歳の差131歳 生きていたら184歳
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祖母から受け継いだ松平の色留袖 母から受け継いだ徳川の振袖 この他、菊の紋が入った高松宮妃殿下の着物があり、大切にしています。 着る物も昔と今とで概念が変わって来たかも知れません。 日曜日の橿原での講演会には色留袖を着つけていただく事になりました。
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講演会の内容を少しだけ。 徳川慶喜は孫娘の喜久子(後の高松宮妃殿下)を可愛がっており、その姿は元将軍、最後の将軍というのではなく、一人の孫を愛でるおじいちゃんの姿でありました。 こういった歴史の中には、人間の関わりという物語があるというお話をさせていただきました。
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徳川慶喜の別名は興山公 慶喜は絵画にもいそしみ、油絵が何点か残されています。 オランダの風車 海外に行ったことがなく、しかしながら外国への憧れは強かったのではないでしょうか? 。。。めちゃうま!!( ゚д゚)
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東照宮(徳川家康)送別 徳川家康の言葉、人の一生は。。。 は、徳川慶喜も大変感銘を受け、自筆で清書し、後世に遺しました。 私も小さい頃から聞かされていました。 コメント欄に全文掲載
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人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず 不自由を常とおもえば不足なし 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし 堪忍は無事長久の礎 いかりは敵と思え 勝つ事ばかり知りて負くること知らざれば害その身にいたる おのれを責めて人を責むるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり
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明治天皇の直筆
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ナポレオン3世から贈られた軍服を着た徳川慶喜と、その100年以上のちに徳川慶喜を演じた本木さんと徳川慶朝 叔父は大してカッコ良くはないけれど(アンクル、ゴメン!)慶喜公も、もっくんもカッコイイです!!
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母の父〜徳川慶光 母の母〜徳川和子 祖父の父〜徳川慶久 祖母の父〜松平保男 祖父の祖父〜徳川慶喜と有栖川威仁親王、 祖母の祖父〜松平容保と水野忠敬 母は何という家に生まれたのだろう
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大政奉還図 邨田丹陵(むらたたんりょう) 2枚目は左より 邨田画伯、徳川慶光、榊原喜佐子、井手久美子 徳川家と邨田画伯はかねてより交流がありました。 祖父の所有だったこの絵は明治神宮に奉納。 大政奉還により現代社会につながっていきました。 井手純おじ様のTwitterよりお写真拝借
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徳川慶喜の息子、 徳川慶久(右)と学友であり、親しき友である 日本初オリンピック選手 三島弥彦さん 友情の印であるプリクラならず 写真館で撮影されたツーショット写真。 いよいよ開幕ですね。
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高松宮喜久子妃殿下の卒寿を親族でお祝いしました。 左はおてんば姫の井手久美子叔母様、右はみみずの徳川和子おばば様 妃殿下と徳川家の波瀾万丈の90年を超えた絆。
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光輪閣 高松宮御殿としての屋敷ですが、両殿下は国民が大変な時に自分たちだけこんな立派な建物に住めないとし、結婚式場などの会場として公開。両殿下はこの裏にある職員住宅に20年以上住んでおられました。2枚目はお正月に挨拶に行った写真(私、0歳〜昭和44年)
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曽祖母の婚礼衣装と 祖母の婚礼衣装 この衣装には 家の威信が込められています。 時代は変わりましたね。
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徳川慶喜は 愚人は 自分の器量が分からず 天下取りになろうと自惚れる。 水戸家の七男坊でありながら、一橋家の当主になったことですら過分だ。 と言いました。 誠意に満ちた謙虚。 将軍になりたくない という我儘ではないのですよね。。。
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徳川慶喜が食べていたフランス料理 フランス語なので読めませんが。。。(⌒-⌒; ) 慶喜公の字で裏書きしてあります。 史料として残しておく という意思がお有りだったのだと思います。 同じメニュー、食べてみたい! (о´∀`о)くいしんぼ♪