山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(古い順)

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終戦記念日によせて 祖父の徳川慶光は第二次世界大戦で二等兵として出征しました。 そして終戦を迎え、爵位もりなくなり、第六天町の屋敷も膨大なる相続税として物納。 徳川慶喜の将軍、江戸時代から華族を経て、平民への移り変わりを体験してきました。 徳川家は時代と共に生きていました。
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@nhk_seiten 草なぎさん、撫で肩なのですね。 慶喜公も撫で肩です。 毎週、楽しみにしています。
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ナポレオン3世より贈られた 軍服を身に纏った 徳川慶喜 激動の時代でした。 #青天を衝け #徳川慶喜
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徳川慶喜の息子と 勝海舟の孫娘が 結婚しておられるコトは、意外と知られていない事実。 勝家に婿養子に入った精(くわし)様 結婚は今とは違った深い意味がありました。 時代の流れ。 このツイッターで 一族の方と出会えたコトは嬉しい出来事でした。 いつかお会いしてみたいです。
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1964年、母が徳川家から出る時、祖母が娘にしてあげられる最後の事として、徳川紋の振袖をあつらえました。 戦後、徳川家の最後のプライドです。 その着物で1993年に今度は私が結納を交わしました。 着物には愛が宿ります。
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曽祖母 有栖川宮実枝子女王と 曽祖父 徳川慶久(徳川慶喜7男)との結婚は 明治天皇陛下の勅許をもって 相成りました。 皇族は華族とのみ結婚が許されていた時代でした。 華族制度は終戦により失われ、新たな時代を迎えました。
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晩年の徳川慶喜(左)と 徳川昭武 この写真は反対を向いていますが 晩年も仲が良かったとのこと。 時代を生き抜いた人たちでありました。 やはり兄弟。鼻とか目の周りとか なんとなく似ているところがありますね。
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徳川家のアルバムには徳川慶喜の写真が収められています。 金銀財宝ではないかも知れませんが、一枚一枚に込められた想い、時代という宝を表しているようです。 こんな時代を超えての今ですね。
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徳川のニセモノ、ネットでも時々見かけます。 この人誰だろう??きっと本名違う人。 葵交会、徳川家の家系図が語れない人は怪しいデス。
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徳川慶喜は没後、生前の功績を讃えられ、旭日桐花大綬章を天皇陛下より賜りました。 いくつもの時代を生き抜いてきました。 家の為、ましてや自分の為に殺し合いや差別をする事、人を傷つける事は愚かであることを伝えたかったと思います。
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戊辰戦争で 会津鶴ヶ城落城の折 これだけは敵に渡すには惜しいと 刀で切り取った襖絵 泰西王侯騎馬図 会津松平家より寄贈 現在はサントリー美術館所蔵 (重要文化財) 去年の所蔵展で見に行ってきました。
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徳川慶喜が大政奉還をし、坂本龍馬に書状が遣わされた。 龍馬は 「将軍さまのご心中深くお察し申し上げる。よくも断行せられたものだ。自分は誓ってこの方のために一命すてよう」 とため息をついた。 その1ヶ月のち1867年12月10日、坂本龍馬は暗殺された。
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徳川慶喜が20年暮らした屋敷跡 浮月楼に来ています。 こういった時、子孫はどうゆう感想か聞かれるのですが まぁ懐かしい!! とはならず、申し訳ないです^^; 10年くらい前に初めてここの存在を知りました。 #浮月楼 #徳川慶喜屋敷跡
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渋沢栄一翁(号は青淵)が生涯尊敬した徳川慶喜を伝えようと、伝記を出版してくださり、本当に感謝しています。 また、今回の大河ドラマで、渋沢栄一とその偉業が知られるようになった事も良かった事と思います。 歴史を知ると意義と価値が生まれます。 #青天を衝け #渋沢栄一 #徳川慶喜
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幕末というのは、歴史の宝庫ですね。 徳川慶喜 公爵授爵の写真と 麝香間祗候時の正装 和装から洋装の時代
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徳川慶喜公は、明治時代、様々な所に旅をされ、趣味でもあったので、沢山写真を撮られました。 福島県にある有栖川宮別邸 天鏡閣へもお出かけになりました。 叔父が生前、徳川慶喜撮影写真集を出版した事は、家に伝わる慶喜家資料公開の一石でありました。
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徳川慶喜家ファミリーヒストリーをショートムービーにしてみました。 懐かしい気持ちと寂しい気持ちが入り混じります。
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徳川慶喜が36歳の時の子、長女の鏡子(きょうこ)さまから、父慶喜へ宛てた手紙 (美しい封筒が思いやりを語る) 鏡子さまは実子として成長された最初の子。 田安徳川家四男 徳川達孝(サトタカ)さまに嫁がれるも20歳で亡くなります。 この時代、まだ生きるという事さえ困難な時代。
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徳川家の親族は、徳川家の空気感を共有しています。 その中で、お互いの立場を理解と配慮がありました。 見えない歴史でもあり、学芸員がそれを知らず一線を超えると、あぁ、解ってないな。。。と徳川家の信用がなくなります。それが何より怖い。知識の問題ではない所が歴史の中にあります。
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江戸城明け渡しをしたのち 徳川慶喜は 幕府に全てを捧げた会津とは、時間をかけて話し合いをすべき と朝廷側に伝えています。 朝廷側がそれを無視し、会津戦争が始まった。 慶喜の無念と悲しみ。 会津は最後まで誠の武士であった。と語っています。
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そして、徳川慶喜の孫と 松平容保孫が結婚したことは どれだけの人の心乗せてきたかと思います。
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渋沢栄一による徳川慶喜公伝の稿本 中に添削も。 そしてこの伝記を編纂する渋沢栄一へのインタビュー本として、昔夢会日記があります。 (大久保利兼〜大久保利通の孫による) どれだけの思いが詰まっている事でしょう。
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徳川慶喜邸 〜徳川慶喜撮影による〜 小日向第六天町(現在の文京区) 徳川慶喜没 約30年後、ここで母が産まれました。
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司馬遼太郎の徳川慶喜は 小説 渋沢栄一の徳川慶喜公伝は伝記 小説やテレビドラマが、本来の歴史認識より先走る傾向にありますが、今回の大河ドラマは、伝記寄りという印象です。 #青天を衝け
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曾々祖父の徳川慶喜の墓地は東京上野の寛永寺敷地内にありますが、現在、私の管理下にあります。 毎年、春と秋にお墓参りをしています。 遺族が現在も生きていますので、大河ドラマに関わる方にお参りしていただきたかったです。 (映像を流すだけでなく) 連絡一切無し。。。