山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(古い順)

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父 徳川慶喜様へ 息子 慶久の絵葉書 慶久様はとても絵が上手く、様々な方に自筆の絵葉書を書いています。 この絵葉書からは父上である慶喜に尊敬と親愛を持って描かれているのが伝わってきます。 慶喜は歴史上の人物かも知れないのですが、心が通う素晴らしい人でした。
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渋沢栄一さまには、徳川家は生涯お世話になりました。 前列左から 渋沢栄一、井手久美子、榊原喜佐子、徳川慶光、徳川実枝子、高松宮喜久子、渋沢千代 twitter.com/idejun1201/sta…
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渋沢栄一さんは徳川慶喜公伝という伝記を出版してくださいました。大いなる尊敬がないと出来る事ではありません。 徳川慶喜は本当に我慢の人生でした。鳥羽伏見の戦いの臆病者 と言われ続け、ずっと黙って受け止めていました。人民の命は己の立場より貴重である。 #徳川慶喜 #渋沢栄一 #晴天を衝け
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大河ドラマで、徳川斉昭役に竹中直人さんと発表された時、いやはや!さすが!! と、思いました。 生まれ変わりのようなクリソツ感! 竹中さんのお写真@exiteニュースより #晴天を衝け #竹中直人 #徳川斉昭 #徳川慶喜父
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徳川慶喜は大政奉還後、引退という形を取っていましたが、慶喜の事を大変尊敬していた明治天皇より「麝香間祗候(じゃこうのましこう)」という役目をいただくことになります。 皇居に「麝香間」という部屋があり、定期的に拝謁しご意見を述べるという、いわば天皇のご意見番でした。
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〜徳川慶喜と明治天皇との交流〜 徳川慶喜は度々、明治天皇と共に食事をしておりました。 しかもフランス料理! 赤い文字は慶喜の筆。 招待状に切手がないという事は宮内庁から直々に届けられたという事ですね。 一つの資料から、その向こうにある風景が見えてくるようです。
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徳川慶朝と徳川慶喜 1998年に徳川慶喜が大河ドラマになった時、スタジオにお邪魔して時の一枚 衣装はナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜(2枚目)を忠実に再現。 叔父はひいお爺様に会えて、とても嬉しかったそうです。 #大河ドラマ #徳川慶喜
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大河ドラマ、次回は桜田門外ノ変。先日、皇居一周お散歩してきました。桜田門をくぐって、警視庁をのぞむ。 この立派な門の外で161年前の暗殺事件。しかし井伊直弼は滋賀では大変な明君であったと。 歴史というのは二面性があり、双方の立場で理解するのが正しい歴史認識だと思います。 #大河ドラマ
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祖父母の結婚 徳川慶喜家と松平容保家 徳川慶喜はむしろ政治家でした。その慶喜が語ったのは 「松平容保はまことの武士であった」 時代を超えての結婚は平和を望む声でした。 祖母の嫁入りには懐刀がありました。 自分を守るためではなく、家の恥になるような事があれば、自害できるよう。
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徳川慶喜は別名興山(こうざん)公と呼ばれていました。 引退してい約30年の間に、写真、投網、狩り、弓、絵画などを嗜んでいました。どれもが玄人レベル。 徳川慶喜の描いた風景画が現存しています。 この時代に日本で油絵を描いていた人は本当に少なかったと思います。
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徳川家の銀の箸 一橋家時代、将軍時代には毒殺の可能性もありました。 食べ物に毒が入っていると銀の箸は変色します。 暗殺という恐怖を抱えながら生きなければならない人生は、たとえ将軍になったとしても幸せでしょうか。。。
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知られているようで、知られていない徳川慶喜の書 日本橋 ひらがなの方も慶喜の書なのです。 原本は 国立公文書館に保存されています。
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昭和13年9月25日 報知新聞 祖父母の結納が公表され、新聞記事になりました。 しかし一面にはヒットラーが。。。
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徳川斉昭(父)より一橋慶喜(息子)へ 教育パパゴンのお手紙集 烈公御宸翰(れっこうごしんかん) 徳川斉昭は慶喜に特別愛情を注いでいました。 沢山の教育手紙の中には ふんどしの巻き方なども丁寧に教えていました。 斉昭様の文字からは自由な感じをお見受けします。 #大河ドラマ #青天を衝け #徳川慶喜
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徳川家康遺訓 勝つことばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。 桜田門外の変はまさにその象徴かと。 勝つ事は危険を背負う。 常に負を敢えて選ぶ徳川慶喜。それを喜んでいる人たちはいかに愚かであるか。 そんな教えを身に感じる時があります。目的は勝つ事ではない。 #青天を衝け
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晩年の徳川慶喜の写真 瞳の奥には時代を超えて生きた憂いというのを感じます。何という人生だったのでしょうか。。。 その中で、孫娘の喜久子(後の高松宮妃喜久子殿下)を可愛がる姿に平穏が伝わります。
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右 徳川慶喜の七男 慶久 左 三島弥彦(日本初オリンピック短距離選手) 一昨年の大河ドラマ「いだてん」で生田斗真さんが演じておられましたね。 ホンモノはこちら。 当時、一緒に写真を撮るという事は友情の証 仲がよかったみたい。 #大河ドラマ #いだてん #生田斗真
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徳川慶喜家には家範(かはん)といって、徳川慶喜家が定めた家のルールみたいなものが残されています。 慶喜本人が丁寧にしたためました。 子孫繁栄を願っての事ですが、明治35年(1902)から約120年間の時代の移り変わりはとても激しいと思います。 家族の歴史を日本の歴史に。。。
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男爵 澁澤栄一著 徳川慶喜公伝 龍門社発行 渋沢栄一さんは徳川慶喜を心の底から尊敬してくださり、徳川慶喜のような立派な人は後世に語られるべきと考え、こうして伝記として編纂してくださいました。 #青天を衝け #徳川慶喜 #渋沢栄一
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宮内大臣から徳川慶喜への手紙 明治34年に天皇家に親王が生まれ、東宮御所にて命名式に参列するよう、宮内大臣からのお達しがありました。生まれたのは皇太子(のちの大正天皇)の息子、 のちの昭和天皇です。 江戸時代から昭和につながるお手紙ですね。
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徳川慶久さまと実枝子様がご結婚の際の明治天皇陛下からの勅許 有栖川宮実枝子女王は皇族だったので、ご結婚の際には天皇陛下からの勅許をもって、結婚が整います。 この二人の結婚は時代を語る大切な縁談であり、万感の思いをもって多くの人に祝福されました。
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徳川慶喜は元々自分が一番になろうと思っていない。 皇室に全てを渡し、命をも差し出す覚悟だったし、自分が江戸に残ると、良からぬ策略が企てられるから、静岡に引退。 遠慮深く、謙虚で決して自分が天下を握ろうなんて思ってないのに、テレビ的にはそれでは面白くないのでしょうか?
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渋沢栄一さんから徳川慶喜への手紙 渋沢さんは大変勉強をされたというのが伝わる、美しい文字です。
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徳川慶喜は明治後半になって皇居に招かれ、天皇皇后両陛下と食事を共にしました。 昭憲皇太后(明治皇后)が慶喜にお酒を注ぎながら 「これで私も心の荷が降りました」と。 両陛下は徳川慶喜の事をずっと気にかけてくださっていました。
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徳川慶喜は写真が好きだったのは有名な話。 お出かけしては写真を撮っていました。 晩年も王子にある渋沢栄一邸にお呼ばれして行ってきて、写真を嬉しそうにパチパチ撮っていたのでしょう。 時代を超えた姿です。 今日も大河ドラマ楽しみです。 #青天を衝け #渋沢栄一 #徳川慶喜 #渋沢邸