山岸美喜(@yamagishimadam)さんの人気ツイート(古い順)

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徳川家のアルバム カメラ好きだった徳川慶喜のアルバムには時代を顕す写真が数多く残されています。 家族の思い出としてめくるか、他人が史料としてめくるか。 家族の歴史を日本の歴史にする事は、意義のある事と理解しますが、同時に家族にとっては哀しさも含まれます。
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将軍 徳川慶喜から 時を経て 公爵 徳川慶喜へ この人ほど、時代に翻弄された人はいないのではないでしょうか。 生まれと育ち、そして本人の努力が、自分の意思とは違う方向に翻弄され続けた人生だったのかも。 本当の命の大切さを知っているのは、徳川慶喜と昭和天皇陛下かも知れません。
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明治35年に徳川慶喜は公爵になったのですが、その後、何か怪我をしたようで、皇太子両殿下よりお見舞いに、ワイン1ダースと卵150個下賜されたそうです。 栄養つけて元気になってくださいというお気持ちが伝わります。 卵いっぱい(*^◯^*)
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鳥羽伏見の戦いで、「敵前逃亡した臆病者」が 「汚名を背負う勇気を持っての戦争回避」であった と語られるようになるのは、いつになるのでしょう。。。
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昔夢会筆記 渋沢栄一さんによる徳川慶喜本人へのインタビュー本。 渋沢栄一が徳川慶喜公伝を編纂するにあたっての準備本(?) 司馬遼太郎の徳川慶喜は小説ですし、大河ドラマはテレビドラマで脚色ありきです。 きちんと知ること大事! と、とある出版社の方からいただきました。 #徳川慶喜
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徳川家の着物 祖母や母から受け継いだ着物や帯があります。 徳川紋はいかにも徳川!!という感じなので、そこまで仰々しくなく葵をモチーフにしています。 実は徳川家の人たちは、こういったさりげない使い方が好きなのです。 さりげなく、プライドを身にまとう。。。という感じでしょうか。
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徳川家に限らずなのですが、子供が産まれたら、名前とは別にお印というのがあります。 皇族で知られているとは思いますが。。。 祖母のお印は「まり」でした。 「まり印」のまり柄の風呂敷。 今も大切に使っています。
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癌との闘い 徳川実枝子さまは癌をわずらわれ、気づいた時には末期でした。 高松宮妃喜久子妃殿下は 娘といえど、雲の上に上られた方。娘が自分の看病することをよしとせず、昭和8年に亡くなりました。妃殿下はそのお悲しみを胸に高松宮妃癌研究基金を立ち上げられました。 #高松宮妃癌研究基金
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高松宮妃殿下が、仲が良かった義妹の徳川和子に譲ったお着物。 28年前、私の結婚の折に祖母から譲り受けました。 皇室の菊の柄と、妃殿下のお印の撫子をあしらった柄。 もう消えかかっていますが、高松宮家の御紋つき。 日本の誇るべき歴史と文化と芸術だと思います。
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去年でしたが、自毛で島田に結っていただき、徳川の着物を着用しました。 島田を結うには長い髪が必要で、この時のために伸ばしてきて、この後、42センチのヘアードネーションをしました。 時代劇みたいで楽しい一日でした。 苦しゅうない!なんて言っちゃったりして、ホントは苦しかったです^^;
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徳川慶喜家の車ダイムラー 常に新し物好きの元将軍「徳川慶喜」 これに乗ってお出かけしていました。 お抱えの安藤運転手と共に。 運転手は当時は大変に少なかった特殊職業。 しかし、慶喜さまは自転車乗るわ、カメラだ、自動車だ。。。 完全にザ・男の子!ですね。
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祖母の実家、会津松平家は子爵家で、東京の小石川区第六天町に家族で住んでいました。母は水野家から来た進子(ゆきこ) 公爵徳川慶喜家当主慶光との縁談が持ち込まれ、お見合いし結婚。 当時の会津松平家は洋館で立派な家の佇まい。 祖母は「同じ町内で結婚したのよ」と話してくれました。
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祖父(慶光)の祖父 徳川慶喜 祖母(和子)の祖父 松平容保 ご先祖さまがドラマに出ているのを見るのはなんだかワクワクします。 時代を超えた親族大集合的な。。。 ご先祖さまが皆イケメン俳優(しかも演技派!)の方々で嬉しいです(*^^*) #青天を衝け #大河ドラマ
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母の実家が徳川家という事を人に言うものではない。 と両親や周りに言われていました。 妬みも買うし、嫌われる事もある。 叔父を看取ってからどんなに嫌われてでも、心より尊敬する母や祖母、ご先祖様に供養を込めています。 その向こうにある歴史がある事。 私はみんな死んじゃって悲しいのです。
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私の持っている史料に 大政奉還後、ならず者の薩長との一戦は免れない。早いとこ制圧して。。。と思っていたら薩長に錦旗が上がったのを見て、朝敵になる事は出来ないとして、撤退した。 と書いてあります。 命が惜しくて逃げ出したのではないようです。 #鳥羽伏見の戦い #徳川慶喜
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曽祖母の徳川實枝子(旧名:有栖川宮實枝子女王) たまにあだ名で私のコトを姫と呼んでくださるのですが、本当のお姫様は實枝子さまだと思っています。 小さい頃から有栖川宮威仁親王両殿下に慈しみ育てられ、徳川慶喜家にお輿入れさた美しく品格のお有りになるお姫様 ニセモノと似ても似つかず。。。💧
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上段左より 松平康愛(やすよし) 〜松平慶永の玄孫 徳川和子 〜松平容保の孫 松平久美子 〜徳川慶喜の孫 松平綾子 〜松平康愛の母(徳川慶喜の孫) 徳川慶光 〜徳川慶喜の孫 下段 高松宮両殿下 松平康昌 〜松平慶永のひ孫
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明治44年日本橋開通式の招待状と式次第 東京市長 尾崎行雄氏よりご案内がありました。 江戸時代が終わり、現代社会が作られてゆく一つの出来事ではないかと思います。こういった資料を目にする事により、歴史が生きてくるような気がいたします。 日本橋は幼き頃から憧れの場所でした!!
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徳川慶喜家の資料は色々な物がありますが、家族の歴史そのものです。 祖父の徳川慶光が生まれた時、昭憲皇太后(明治皇后)陛下に名付けられたのは、驚きでした。 そして時代と共に翻弄された人生を送り、1993年80歳の誕生日に亡くなりました。
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大隈重信より徳川慶喜へのお手紙。 走り書きのようなお手紙ですが、丁寧な宛名書きで、敬意を持って接してくださっていたというのが伝わってきます。 大隈重信氏は二度も総理になられていたとは知らなかったです。 早稲田大学の創立者というイメージ強しです(⌒-⌒; )
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徳川家から高松宮家へ 公爵徳川慶久次女(長女は夭折)の喜久子さまは、生まれながらにして運命を背負われ、昭和天皇の弟、高松宮宣仁親王殿下にお輿入れされました。本当に美しく、心の素晴らしい方でした。 しかし妃殿下の本当に素晴らしいところは、その後のご活躍でした!
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叔父の徳川慶朝は大変な凝り性で、家にあった文献から、徳川慶喜は珈琲を飲んでいたことを知り、その時代に手に入ったと思われる豆でコーヒーを自ら焙煎し、茨城のサザコーヒーさんが商品にして下さいました。 祖父母の家に行った時と同じ香りが懐かしく思います。 #徳川将軍珈琲
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資料の中に鼈甲のピンがありました。 何に使うのだろうと思っていたら、友人である京都の元舞子さんがこれを見て、「あぁ!コレはね、203高地髷に使うものよ!」と。 当時、その髪型をしていたのは実枝子さま。 こういった物が時代を超えて、歴史と文化が引き継がれるものなんだと思いました。
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祖父母の時代、結婚式の翌々日の お里開き 結婚式を挙げた後、正式にお嫁さんの実家にご挨拶に行く風習。 きちんと大切にしていますという報告かと。 それだけ結婚は家同士の繋がりだったと思います。 祖母は懐刀(家を辱める事があれば自害〜という風習のお守り)を携えて、徳川家に嫁しました。
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徳川慶喜とひ孫の慶朝 本当に似ていると思うのです。 静かな佇まいや、我慢強い所、優しい所 そして人と争う事を殊更嫌いました。 どんなにマウントされても。 争うという事は、同じレベルに成り下がります。 それを品格と言うのかも知れません。 周りは口惜しい思いを沢山された事でしょう。