原爆によって破壊された長崎・浦上天主堂
今日は桜桃忌です。 1948年6月19日、6日前に自殺した太宰治の遺体が発見されたことから太宰を偲ぶ日とされています。 名前の由来はさくらんぼの時期であることと、晩年の作品の桜桃にちなみます。 太宰の遺体が発見されたこの日は太宰の誕生日でもありました。
1933年12月23日、上皇陛下が生まれました。 昭和天皇の子は4人続けて女子であったため、皇位継承者の誕生に国中が湧き上がったといいます。 魚類学者としても知られており、ハゼの研究者として論文も執筆、退位後の2020年にもオキナワハゼ属の新種を発見するなど活躍されています。
明治時代に撮影された電柱のある日本の風景 最初は電信用の柱として作られ、のちに電話用、電気用としても使われるようになります。 当時の電柱は木製で、明治維新から10数年が経った頃には電柱のある風景は日本のいたるところで見られるようになりました。
明智光秀=天海説の根拠 ・日光に明智平と呼ばれる区域がある ・徳川家光の乳母は、斎藤利三の子の春日局、家綱の乳母は光秀の重臣の溝尾茂朝の孫 ・光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦も、戦後に助命 ・光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していた ・天海の墓所は近江坂本 #麒麟がくる
1945年8月20日、真岡郵便電信局事件が起きました。樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が終戦後も続いていました。 真岡郵便局の電話交換手は引き揚げをせずに業務中でしたが、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手が局内で自決を図り、9名が亡くなりました。
北条政範が京都に上った頃の登場人物の年齢(満年齢) 北条義時 41歳 北条時政 66歳 北条政子 47歳 北条時房 29歳 北条泰時 21歳 北条政範 15歳 実衣   45歳 源実朝  12歳 三浦義村 36歳 和田義盛 57歳 八田知家 62歳 畠山重忠 40歳 平賀朝雅 22歳 後鳥羽上皇 20歳 #鎌倉殿の13人
高島秋帆は日本初となる洋式砲術の公開演習を行なうなど砲術家として活躍しました。 しかし長崎会所をめぐる幕府の抗争に巻き込まれ、岡部藩にて幽閉されますが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触していたそうです。 ペリー来航による社会情勢の変化に伴い釈放されます。 #青天を衝け
大正時代に撮影された東京の風景
1948年11月12日、極東国際軍事裁判の判決が下されました。 「平和に対する罪」を問われた所謂「A級戦犯」として、東条英機ら7人が絞首刑、16人が終身刑を宣告されました。 インド人判事のパールは、「平和に対する罪」は事後法であるとして、最後まで被告全員の無罪を主張していました。
吉良氏は、室町幕府将軍の足利氏から分家した足利一門で、今川氏は吉良氏の分家にあたります。 吉良義昭の兄、吉良義安の系譜が、後年家康に取り立てられ、忠臣蔵で浅野内匠頭に切られる吉良上野介義央に繋がります。 #どうする家康
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
1945年8月6日、原爆投下直後の広島の様子
倒壊した長崎・浦上天主堂
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が凶弾に倒れる「五・一五事件」が起こりました。 議会制民主主義が根付き始めた一方で、世界恐慌を発端とする大不況が蔓延していた最中の事件でした。 海軍将校らに歩み寄る犬養が射殺され、剰えそれが肯定されてしまったことで、軍部の台頭が加速します。
赤穂浪士の討入り、桜田門外の変、二・二六事件は、どれも「雪」を連想させる事件です。 しかし、二・二六事件は「降雪中」の事件ではありませんでした。 反乱軍による首相官邸などの襲撃が一通り済んだ午前6時頃、まだ雪は降っていなかったようです。 積もっている雪は数日前の大雪によるものでした。
明治時代に撮影された、下の子の世話をする姉たち
明治時代に撮影された京都の風景
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
今日はひな祭りです。 現在のように雛人形が飾られるようになったのは、女子の人形遊びと節句の儀式が結びついた江戸時代といわれています。 平安時代より紙で作った人形を流す『流し雛』がありましたが、人形は高価で流すことはできず、鑑賞を楽しみ、終わったらすぐに片付けるスタイルになりました。
明治時代に撮影された日本の風景
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
アメリカ人によって撮影された明治時代の日本の風景
今日は『漱石の日』です。 1911年2月21日に夏目漱石が文部省からの文学博士号授与を辞退したことに由来します。 漱石は1905年に『吾輩は猫である』を発表して以来、『坊っちゃん』『三四郎』『それから』などの作品を手掛けている頃でした。 『こゝろ』『道草』などを発表し、1916年に亡くなります。