善児の弟子 トウは、義時の郎等として『愚管抄』に登場する「藤馬」がモデルになったといわれています。 慈円が書いた『愚管抄』によると、屋敷から逃された一幡は、比企能員の変から2ヶ月後に、義時の郎等、藤馬によって殺害されたとのことです。 #鎌倉殿の13人
1933年12月23日、上皇陛下が生まれました。 昭和天皇の子は4人続けて女子であったため、皇位継承者の誕生に国中が湧き上がったといいます。 魚類学者としても知られており、ハゼの研究者として論文も執筆、退位後の2020年にもオキナワハゼ属の新種を発見するなど活躍されています。
阿野全成の娘が公家に嫁ぎ、阿野の名字と領地を相続したことで阿野家は公家として残り、全成の血は天皇家にと繋がります。 養子を挟みながら昭和まで続くも、戦争で当主と後継ぎが戦死し断絶。 阿野家の墓は今も谷中霊園にひっそりと建っています。 #鎌倉殿の13人
ここから少し笑い話。 幕末の混乱の真っ只中で、時の経過と共に品種改良の事は忘れさられ、26頭の馬は散逸してしまう。 これを知ったフランス公使は、ナポレオン3世の厚意を踏み躙ったと、遺憾の意を外務省に伝える始末。 重大な国際問題になりかねないと焦った政府は必死で馬探しを始めたという。
明治時代に撮影された日本の風景
明治末の電話交換局内の様子
鬼滅の刃の世界を彷彿とさせる約100年前の日本の風景
1868年7月19日、新選組一番隊組長の沖田総司が亡くなりました。 剣の腕は抜群で、竹刀での稽古では土方歳三が子供扱いされるほどで、近藤勇でも敵わなかっただろうとのちに永倉新八は語っています。 沖田の稽古は相当厳しく、「刀で斬るな、体で斬れ」と指導し、近藤勇より恐れられていたそうです。
姉川の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 織田信長 36歳 木下藤吉郎 33歳 明智光秀 54歳 井伊直政 9歳 #どうする家康
約90年前に撮影された東京の航空写真
終戦の日、ラジオにて玉音放送を聴き日本の敗北を知らされる国民の姿
今日は桜桃忌です。 1948年6月19日、6日前に自殺した太宰治の遺体が発見されたことから太宰を偲ぶ日とされています。 名前の由来はさくらんぼの時期であることと、晩年の作品の桜桃にちなみます。 太宰の遺体が発見されたこの日は太宰の誕生日でもありました。
明治時代に撮影された靖国神社
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没します。 死者は2,740名、生存者は269名でした。 写真は坊ノ岬沖海戦での大和の最期の姿です。
関東大震災発生時、連合艦隊は大連沖で訓練中でした。 地震発生の報告を受け連合艦隊は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かっています。 このとき連合艦隊旗艦の戦艦長門は、対外公称速力23ノットであるにも関わらず、大隅沖で26ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されています。
明治時代に撮影された日本の風景
1945年8月15日、終戦を迎えた人々の様子 #終戦記念日
1945年3月10日、東京大空襲が行われました。 都市部を標的とした無差別爆撃によって被災者310万人、死者11万5千人以上の被害を出しました。 アメリカ軍は東京侵入の際に、富士山を第一目標に、その後進路を東にとって東京を目指しました。
比奈は、義時と離縁した後に、京都の貴族で歌人としても有名な源具親に再婚します。 具親との間に、輔通、輔時という2人の子をもうけ、輔時はのちに、比奈と義時の間に生まれた北条朝時の養子となります。 輔通も、幕府の後押しで官位の任官を受けるなど、北条氏との縁は続きました。 #鎌倉殿の13人
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
1594年10月8日、石川五右衛門が処刑されました。 都市部を荒らし廻り、豊臣秀吉によって一族もとろも処刑されました。 生きたまま油で煮殺され、子供を守るため自身が息絶えるまで子供を持ち上げていたという伝説が残っています。 江戸時代以降、伝説の大泥棒として多くの作品の題材となりました。
日露戦争で外国の観戦武官を交えて撮られた日本軍司令部の集合写真 100年以上前から、集合写真の最前列で寝そべる人がいたことが分かります。
今日は『ネコの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。
1945年9月2日、日本が降伏文書に調印し、第二次世界大戦が正式に終結しました。 調印式は米戦艦ミズーリ号で行われ、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らが日本全権として参加しました。 片足が義足だった重光は、ステッキを使って甲板まで登りきり、甲板上で一杯の水を所望するも断られたそうです。
1937年4月3日、満州国皇弟の愛新覚羅溥傑と嵯峨浩が結婚しました。 日本の傀儡国家、満州国との繋がりを深めるための政略結婚でしたが、夫婦仲は良く、慧生、嫮生の二人の女子にも恵まれました。 日本の敗戦後は、夫の溥傑は強制収容所に入れられ、妻の浩は日本に逃げ延び、15年後に再び再会します。