1889年(明治22年)頃に撮影された品川駅の様子です。 撮影場所は八ツ山橋となっています。 右上に見えるのは海です。当時は駅と海が隣接していました。
8年後の1897年(明治30年)に撮影された品川駅の様子です。 構内の様子がだいぶ変わっているのが見て取れます。
@oldpicture1900 リツイートありがとうございます。 こちらの写真は1872年の開業当初の品川駅の様子です。 海沿いというか、もはや海ですよね。
城島さん、桝アナがいる観音崎砲台では、現在も友好国の軍艦が東京湾を訪問する際、正規の外交機関を通じて礼砲実施の申入れがあった場合に、横須賀陸警隊が礼砲を実施しています。 使用されている大砲は、くす型護衛艦より撤去した3門の50口径3インチ単装砲が転用されたものです。 #鉄腕DASH
今城島さんたちがいる海上聴測所は、特殊聴音機を設置し潜航して侵入する敵潜水艦を捕捉するための施設です。 昭和18年10月に、連絡船「崑崙丸」が米潜水艦「ワフー」によって要塞目前で撃沈されたことに陸軍は衝撃を受け、試験施設として観音崎に設置しました。 #鉄腕DASH tokyo-bay.biz/pref-kanagawa/…
昭和初期のクスッとくる和製英語
明治元年に撮影された浅草の写真 江戸時代の雰囲気そのままですごく良い
音響メーカーとして有名なビクターの広告(昭和14年)。 ビクターのマークとなっているあの犬の名はニッパーといい、蓄音機から流れる亡き飼い主の声に聞き入っている様子が描かれています。
江戸城から皇居へ移り変わっていく様子
明治時代に撮影された商売人たちの様子
伊藤博文の女好きエピソード ①留学中、風俗街に入り浸り帰国させられそうになった ②日清戦争で広島大本営滞在時も芸者遊び ③「掃いて捨てるほど女がいる」という意味で「ほうき」というあだ名がつけられる ④『恋の伊藤博文』という本が出版される
明智光秀=天海説の根拠 ・日光に明智平と呼ばれる区域がある ・徳川家光の乳母は、斎藤利三の子の春日局、家綱の乳母は光秀の重臣の溝尾茂朝の孫 ・光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦も、戦後に助命 ・光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していた ・天海の墓所は近江坂本 #麒麟がくる
南光坊天海はなぜか甲冑が残っており、その名前は「麒麟前立付兜」 知らなかった… #麒麟がくる touken-world.jp/tips/11264/
今日は建国記念の日です。 戦前は紀元節と呼ばれていましたが、戦後GHQによって削除され、1967年に佐藤栄作内閣によって建国記念の日として復活しました。 今年は初代天皇の神武天皇が紀元前660年2月11日に即位してから2681年目、皇紀2681年となります。
明治時代に撮影された日本橋 白木屋の店内の様子です。 他店に先駆け、伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止し、陳列式に切り替えた店内が特徴的です。 蕎麦屋や寿司店など飲食店も出店し、販売方式の面で百貨店化するとともに、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなりました。
渋沢栄一は無類の女好きでした。 妾の子も含めると子供は50人ともいわれています。 夫人は「『論語』とは上手いものを見つけたよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れてないものね」と語ったそうです。 (キリスト教は姦淫を禁じているが、論語には性に関する戒めは書かれていない) #青天を衝け
渋沢栄一は花柳界では5本の指に入る遊び人だったそうです。 仕事も遊びも生涯現役の渋沢栄一。こんな目線で今年の大河を見てみるのも面白いかもしれませんね。
徳川慶喜は父の斉昭に厳しく躾けられました。 慶喜は幼い頃寝相が悪く、斉昭は寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てたといわれています。 慶喜は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと分かっていましたが、寝心地は悪く、繰り返すうちに寝相を治したそうです。 #青天を衝け
高島秋帆は日本初となる洋式砲術の公開演習を行なうなど砲術家として活躍しました。 しかし長崎会所をめぐる幕府の抗争に巻き込まれ、岡部藩にて幽閉されますが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触していたそうです。 ペリー来航による社会情勢の変化に伴い釈放されます。 #青天を衝け
日露戦争における日本の辛勝は、戦争遂行のための資金調達に成功したことが大きかったと言えます。 その資金調達に尽力した人物こそ、当時日銀総裁だった高橋是清でした。 交渉の末、戦費の約7割を、外債で賄うことに成功しました。 ちなみに、この外債の完済まで戦後の1986年までかかっています。
明治時代の初めごろに撮影された京都の風景
明治時代に撮影された富士山
今日は『漱石の日』です。 1911年2月21日に夏目漱石が文部省からの文学博士号授与を辞退したことに由来します。 漱石は1905年に『吾輩は猫である』を発表して以来、『坊っちゃん』『三四郎』『それから』などの作品を手掛けている頃でした。 『こゝろ』『道草』などを発表し、1916年に亡くなります。