1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。 無傷の軍需工場が集中しており、また連合国軍の捕虜収容所がない等の理由から、投下目標都市に広島が決定されたといわれています。 原子爆弾「リトルボーイ」によって、当時の広島市の人口約35万人のうち、約9万~17万人が死亡したとされています。
1902年7月12日、西竹一が生まれました。 ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越競技に、愛馬のウラヌスと共に出場し、金メダルを獲得しました。 この活躍により「バロン西」の名が世界に轟きました。 1945年3月22日、西は硫黄島の戦いで戦死し、ウラヌスもその1週間後、西の跡を追うように亡くなりました。
日本で国葬が行われたのは、1967年の吉田茂が最後です。 戦前は、国葬令の基準に基づいて元老などが国葬とされていましたが、戦後は国葬令が廃止されたため、閣議決定により特別に国葬とされました。 吉田茂の国葬の時には、官庁や学校は半休となり、吉田を偲んだといいます。
1971年9月18日、日清食品が「カップヌードル」を発売しました。 チキンラーメンの開発者である安藤百福がアメリカにも売り込みますが、箸と丼が身近になく売れませんでした。 アメリカ人が袋麺を紙コップに入れ、フォークで食べていたのを見て現在のカップ麺が開発されました。
明治時代に撮影された日本の風景
今日は「日本酒の日」です。 大変な酒好きとして知られる、画家の横山大観は、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず、酒と肴と少量の野菜だけで済ませていたようです。 それにも関わらず、大観は大病もせずに90年近い寿命を全うしました。 特に、日本酒「醉心」をこよなく愛していました。
1945年7月6日、甲府空襲が行われました。 約3時間の空襲で740名の死者が出ました。 大きな軍需工場もない甲府をなぜ空襲したのか疑問に思った市民による調査により、軍事上重要な都市はほぼ爆撃を加えており、東京に近く規模もある甲府がたまたま狙ったとする調査結果が2017年に明らかになりました。
明治時代の終わり頃に撮影された東京の風景
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
今日は『尖閣諸島開拓の日』です。 1895年1月14日に尖閣諸島の日本領への編入が閣議決定されたことにちなみ、石垣市が2010年に条例で定めました。 写真は中華民国駐長崎領事が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」で中国人遭難者を救助したとして、沖縄県石垣村の漁民へ送った感謝状です。
1893年12月5日、幕末の会津藩主であった松平容保が亡くなりました。 会津戦争後しばらくは朝敵として蟄居の身にありましたが、1872年には許され、その後は日光東照宮の宮司を務めました。 容保の曾孫にあたる徳川恒孝が徳川宗家に養子に入ったことで、現在の徳川宗家は容保の男系子孫となっています。
1945年8月15日、捕虜収容所にいた日本兵と、勝利を喜ぶアメリカ兵の様子 #終戦記念日
今日はひな祭りです。 現在のように雛人形が飾られるようになったのは、女子の人形遊びと節句の儀式が結びついた江戸時代といわれています。 平安時代より紙で作った人形を流す『流し雛』がありましたが、人形は高価で流すことはできず、鑑賞を楽しみ、終わったらすぐに片付けるスタイルになりました。
1930年代の東京駅
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1945年3月10日、東京大空襲が行われました。 都市部を標的とした無差別爆撃によって被災者310万人、死者11万5千人以上の被害を出しました。 アメリカ軍は東京侵入の際に、富士山を第一目標に、その後進路を東にとって東京を目指しました。
伊藤博文の女好きエピソード ①留学中、風俗街に入り浸り帰国させられそうになった ②日清戦争で広島大本営滞在時も芸者遊び ③「掃いて捨てるほど女がいる」という意味で「ほうき」というあだ名がつけられる ④『恋の伊藤博文』という本が出版される
1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されました。 ダラス市内をパレード中に銃撃され、多くの人々が見ている目の前で命を落としました。 犯人とされたオズワルドは、2日後に拘束された警察署内で銃撃され死亡し、法廷に立つことはなかったため、真相は現在も闇に包まれています。
今も残る明治期の京都の風景
1928年11月3日、漫画家の手塚治虫が生まれました。 来る仕事を殆ど拒まなかったため、常に原稿の締め切りに追われていたんだそう。 その所為なのか、鉛筆で下書きをせずにペン入れしたり、揺れるタクシーや飛行機の中でも、フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができたようです。
1909年10月26日、伊藤博文が、日本による韓国支配を嫌った民族活動家・安重根に射殺されました。 しかし、伊藤は韓国併合には否定的で、暗殺により皮肉にも韓国併合が加速しまったという見解があります。 伊藤は自分を狙撃したのが韓国人だと分かると「馬鹿な奴だ」と呟いたそうです。
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事はありませんが、祝日とされました。
1912年9月13日、乃木希典が明治天皇の後を追って殉死しました。 乃木は日露戦争の旅順攻囲戦を指揮し、情報や物資が不足する中でロシアを圧倒し、「日露戦争の英雄」とも呼ばれています。 この和やかな写真が撮られた日、つまり、明治天皇の「大喪の礼」が行われた日に妻・静子と共に自刃しました。
「正露丸」は「征露丸」とも呼ばれていました。 つまり、「征露」=ロシアを征伐するという意味で、日露戦争の期間に広く軍の間で使用されました。 戦後、戦勝ムードの中で民間にも知れ渡り、「ロシアを倒した万能薬」として多くのメーカーから販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
8年後の1897年(明治30年)に撮影された品川駅の様子です。 構内の様子がだいぶ変わっているのが見て取れます。