明治時代末頃の日光
今日は「日本酒の日」です。 大の酒好きとして知られる名画家の横山大観は、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず、酒と肴と少量の野菜だけで済ませていたようです。 それにも関わらず、大観は大病もせずに90年近い寿命を全うしました。 特に、日本酒「醉心」をこよなく愛していました。
1872年10月14日、新橋-横浜間で日本初の鉄道が開業しました。 徒歩で1日かかる距離をわずか40分程度で運行するという、文明開花の象徴ともいえるできごとでした。 当時の人は鉄道の印象を「早き事神の如し」と語っていたといいます。
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没しました。 死者は2,740名、生存者は269名でした。
カラー化したら映えた殿方たち
約120年前、明治時代に撮影された海水浴の様子 #海の日
渋沢栄一は花柳界では5本の指に入る遊び人だったそうです。 仕事も遊びも生涯現役の渋沢栄一。こんな目線で今年の大河を見てみるのも面白いかもしれませんね。
三河一向一揆が始まった頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 21歳 瀬名 22歳前後 本多正信 26歳 榊原康政 16歳 本多忠勝 15歳 石川数正 31歳 酒井忠次 37歳 大久保忠世 32歳 本多忠真 33歳 夏目広次 46歳 鳥居忠吉 74歳前後 水野信元 42歳前後 空誓 19歳 #どうする家康
江戸時代に撮影された港区三田の綱坂の様子。 手前にあるのが肥前島原藩屋敷、奥が伊予松山藩屋敷です。 松山藩屋敷は明治維新以降、松方正義の邸宅を経て現在はイタリア大使館になっています。
今日は元日です。 戦前までは法令で祝日とは定められておらず、紀元節、天長節、明治節と並び、四方節として今までの慣習から祝日とされていました。 宮中では早朝に、天皇陛下が天地四方の神祇を拝する儀式である四方拝が行われます。
1864年7月8日、池田屋事件が起こりました。 新撰組は監察の山﨑丞らの活躍により攘夷志士が御所に火を放つ計画をしていることを察知、近藤勇・沖田総司・永倉新八ら4名で池田屋に突入します。 土方歳三ら援軍の到着もあり、新撰組は9名討ち取り、4名捕縛の戦果を挙げ、その名を天下に轟かせました。
今から約100年前に政府が発行した、スペイン風邪に対する感染予防を求めるポスターです。 日本では1918年から1921年にかけて計3回流行し、第一波では2,116万人が感染、25万人が死亡、第二波では241万人が感染、12万人が死亡しました。 世界全体では、1億人が亡くなったともいわれています。
大正時代に撮影された隅田川の花火の様子
明治時代に撮影された大阪の風景
1867年11月9日、徳川慶喜が大政奉還を宣言しました。 当初の計画では、政権を朝廷に返上することで倒幕派の名目を失わせ、引き続き慶喜ら幕府が実権を担う予定でした。 しかし、薩長ら倒幕派はこの処置をよしとせず、鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争が勃発し、明治維新へと繋がっていきます。
明治末の横浜の様子
江戸時代末期に撮影された江戸城と市中の様子 #青天を衝け
今日は「忠犬ハチ公の日」です。 ハチの命日は3月8日ですが、3月はまだ寒く雪も残るため、1ヶ月後の4月8日が「忠犬ハチ公の日」とされたと言われています。 また、ハチが生まれた秋田県大館市にもハチ公の銅像があり、渋谷駅前と同様に、毎年4月8日に慰霊祭が行われています。 #ハチ
1945年2月19日、硫黄島の戦いでアメリカ軍が島へ上陸を開始しました。 従来の日本軍の戦術であった上陸直後の敵を攻撃する水際作戦は行われず、米軍は意外の感を受けつつ内陸へ前進します。 しかし日本軍は地下坑道で艦砲射撃に耐えつつ機会を伺っており、上陸から約3時間後、一斉攻撃を開始します。
1868年5月3日、江戸城が新政府軍に無血開城されました。 これにより徳川慶喜は水戸に退去し謹慎します。 江戸開城以前から大久保利通らは大阪遷都論を唱えていましたが、江戸城が無傷で手に入ったことから、遷都先として江戸が急浮上することになりました。
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
1931年8月2日、日本人女性初のオリンピックメダリストの人見絹枝が亡くなりました。 アムステルダム五輪800m走で銀メダルを獲得しますが、そのちょうど3年後に肺炎で亡くなりました。 師の二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」との言葉を残しています。
家康とお田鶴が戦った頃(1568年12月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 25歳 瀬名 26歳前後 お田鶴 18歳前後 本多忠勝 20歳 榊原康政 20歳 酒井忠次 41歳 石川数正 35歳 織田信長 34歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)31歳 武田信玄 47歳 山県昌景 39歳 穴山信君 27歳 今川氏真 30歳 #どうする家康
三方ヶ原の戦い(1573)の頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 29歳 瀬名 31歳前後 本多忠勝 25歳 榊原康政 25歳 本多忠真 42歳 夏目広次 55歳 石川数正 40歳 井伊直政 11歳 水野信元 51歳前後 佐久間信盛 45歳前後 武田信玄 51歳 山県昌景 44歳 武田勝頼 27歳 #どうする家康
1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われました。 日本海軍がハワイ真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と真珠湾基地に対して奇襲攻撃し、戦艦8隻を撃沈させます。 真珠湾攻撃を契機に、太平洋戦争が始まります。 しかし、アメリカ側は日本の暗号を解読しており、奇襲は筒抜けだったといわれています。