1821年8月7日、伊能忠敬らが作成した日本地図「大日本沿海輿地全図」が幕府に献上されました。 見張るべきはその「正確さ」で、現代の地図と比較しても大きな誤差がありません。 近代的な測量技術と地図作成能力が、当時の日本にあったことを示す、歴史的な偉業であったといえます。
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の人々の暮らし
1940年8月8日、「戦艦大和」が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されてませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は、翌年呉工廠にて最終艤装中の大和です。
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
1964年東京オリンピックの閉会式の様子です。 各国の選手団は係員の指示に従わず、入り乱ればらばらに行進しました。 様々な国の選手が入り混じり腕や肩を組み合い入場する、かつて見られなかった形となり、「平和の祭典」を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなったといいます。
1945年8月9日、広島に次ぎ、長崎に原子爆弾が投下されました。 投下されたのは、広島に投下されたウラン型ではなく、アメリカが多額の予算を注ぎ込んだプルトニウム型の原子爆弾でした。 ウラン型とプルトニウム型の威力を比較・実験するために、長崎は2度目の被曝地目標になったといわれています。
倒壊した長崎・浦上天主堂
1930年代の東京駅
1935年8月12日、皇道派の相沢三郎が、統制派の永田鉄山を斬殺しました。 統制派が皇道派の追放を試みた事への反感から起こった事件で、のちの二・二六事件へ繋がっていきます。 永田鉄山の軍人としての評価は高く、「永田鉄山が生きてたら太平洋戦争は起きなかった」とも語られる程だったとか。
明治時代に撮影された京都の風景
1945年8月14日、京橋駅前空襲が行われました。 約150機のB29は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下しました。 京橋駅では乗客がホームに避難していたところに、1発の1トン爆弾が高架を突き破ってホームに落下して爆発し、爆弾の直撃を受け約800人の犠牲者が出ました。
終戦の日、ラジオにて玉音放送を聴き日本の敗北を知らされる国民の姿
1945年8月15日、終戦を迎えた人々の様子 #終戦記念日
明治時代に撮影された靖国神社
名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に在籍していた石丸進一は特攻隊員として零戦に乗って出撃し、戦死しました。 1942年には17勝を挙げ、1943年には戦前最後のノーヒットノーランを達成するなど、名古屋軍を代表する投手でした。 出撃前に最後のキャッチボールを行い、出撃したといいます。
徳川慶喜の弟、徳川昭武は日本人で初めてココアを飲んだ記録が残っている人物です。 フランス留学中の日記で「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と記しています。 昭武は幕府崩壊により帰国しますが、8年後に再び渡仏、今度は約5年に渡る留学となりました。 #青天を衝け
798年8月17日、清水寺が建立されました。 古くから能や歌舞伎などの伝統芸能が演じられてきた「清水の舞台」ですが、最初から存在した訳ではなく、初めて作られたのは11〜12世紀頃のこと。 その後何回も焼失の憂き目に遭い、現在の舞台は、3代将軍・徳川家光の寄進によって再建されたものです。
大正〜昭和初期に撮影された札幌の風景
約100年前に掲載されていた、現在でも残っている企業の広告
1945年8月20日、真岡郵便電信局事件が起きました。樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が終戦後も続いていました。 真岡郵便局の電話交換手は引き揚げをせずに業務中でしたが、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手が局内で自決を図り、9名が亡くなりました。
明治時代に撮影された東京の風景
1944年8月22日、対馬丸事件が起きました。 那覇国民学校の児童、教師ら1,661名が沖縄から長崎に向けて疎開する途中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け、1,484名が亡くなりました。 乗客のほとんどが船倉にいて避難が遅れたうえ、他の船が攻撃を避けるために救助に向かえず、被害が拡大しました。
明治時代に撮影された大阪の風景
1903年頃の神田川に架かる御茶ノ水橋の風景。 日本人の手で設計が行われた初めての鉄橋としても有名で、当時新たな東京名物となったそうです
明治〜昭和にかけての銀座の風景の移り変わり