1872年6月12日、品川〜横浜駅間で日本初の鉄道が仮営業をはじめました。 新橋〜横浜駅間での正式開業は約4ヶ月後の10月となっています。 この鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しました。 写真は明治時代に撮影された品川駅の様子です。
1948年6月13日、太宰治が愛人の山崎富栄と玉川上水へ入水しました。 現場には手をついて滑り落ちるのを止めようとした痕も残っており、太宰は死の直前に突然、生の執着が胸をよぎったのではないかと推測されています。 遺体は6日後の6月19日、太宰の誕生日に発見されました。
降伏した天狗党は当初は寺院に収容され、厚遇されていました。 しかし関東で天狗党の乱行を目の当たりにした幕府軍が到着すると、天狗党員は倉に押し込められ、最悪な衛生状態と厳しい寒さで20人以上が亡くなりました。 最終的に捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑されました。 #青天を衝け
1945年6月17日、鹿児島大空襲が行われました。 鹿児島市内一円に対して行われた空襲により、死者2,316人、負傷者3,500人の被害が出ました。
1945年6月18日、浜松大空襲が行われました。 浜松の都市部を標的とした空襲で、約1,800名の死者を出しました。 7月には戦艦による艦砲射撃が行われ、浜松駅やヤマハの工場などが破壊されています。
今日は桜桃忌です。 1948年6月19日、6日前に自殺した太宰治の遺体が発見されたことから太宰を偲ぶ日とされています。 名前の由来はさくらんぼの時期であることと、晩年の作品の桜桃にちなみます。 太宰の遺体が発見されたこの日は太宰の誕生日でもありました。
1945年6月19日、静岡大空襲が行われました。 3時間あまりの空襲で死者は1,952名、負傷者は5,000名以上に上りました。 この空襲の様子は、駿河湾越しに沼津市や西伊豆一帯からも静岡市街が真っ赤に燃えているのが分かったといいます。
1869年6月20日、土方歳三が戦死しました。 箱館戦争では松前城を陥落させるなど指揮官として活躍し、新政府軍が上陸しても、土方が守る二股口では連戦連勝していました。 最期は新選組の守る弁天台場が新政府軍に包囲され孤立していたところを救出するために出陣したところを撃たれ亡くなりました。
1909年6月23日、 スリの大親分だった「仕立屋銀次」が、日暮里で逮捕されました。 全盛期には手下のスリを約250名抱え、更に弁護士も雇うほどで、その奢侈な生活ぶりから明治後期には「日本一のスリ一味の大親分」として有名でした。 「桃太郎電鉄シリーズ」の「スリの銀次」のモデルになっています。
1980年6月24日、シャープの創業者である早川徳次が亡くなりました。 早川は事業の第一目的は社会への奉仕と明言し、1944年には失明軍人が働く早川電気分工場を開設します。 戦後に法人化し、現在のシャープ特選工業株式会社を設立、視覚障害者自らが独立採算制で経営する工場として広く知られました。
1863年6月27日、伊藤博文、井上馨ら長州藩士5名がイギリス留学のため密出国しました。 伊藤博文の持ち物は間違いだらけの英和辞典と寝間着だけで、渡航途中の船では水兵同然のひどい扱いを受けたといいます。 彼ら5名はロンドン大学にて「長州ファイブ」として顕彰碑が建てられています。
明治時代に撮影された京都の風景
1945年6月29日、岡山空襲が行われました。 空襲警報が出されず不意打ちであったため、1,737名の死者を出しました。 岡山には陸軍兵舎、兵器廠、三菱航空機工場などの重要拠点がありましたが、アメリカ軍はこれら軍事的拠点よりもその下請けとなっている小規模工場、労働者を攻撃対象としました。
終戦の年、アメリカ軍のB29が大阪の街を空襲する様子
明治時代に撮影された京都の風景
約90年前に撮影された東京の航空写真
今日は #ビキニの日 です。 1946年7月5日にルイ・レアールがその小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ、ビキニと命名して水着を発表したことに由来します。 この発表の数日前の7月1日に、ビキニ環礁でアメリカによって第二次世界大戦後初の原爆実験が行われていました。
約90年前に撮影された東京駅前の様子
1946年7月6日、甲府空襲が行われました。 約3時間の空襲で740名の死者が出ました。 大きな軍需工場もない甲府をなぜ空襲したのか疑問に思った市民による調査により、軍事上重要な都市はほぼ爆撃を加えており、東京に近く規模もある甲府がたまたま狙ったとする調査結果が2017年に明らかになりました。
明治末期、夜の銀座の様子
1917年7月7日、カルピスが発売されました。 写真は大正時代に掲載されていた広告です。
× 1917年→○ 1919年 訂正させていただきます。
1864年7月8日、池田屋事件が起こりました。 新撰組は監察の山﨑丞らの活躍により攘夷志士が御所に火を放つ計画をしていることを察知、近藤勇・沖田総司・永倉新八ら4名で池田屋に突入します。 土方歳三ら援軍の到着もあり、新撰組は9名討ち取り、4名捕縛の戦果を挙げ、その名を天下に轟かせました。
1894年7月9日、徳川慶喜の正室の一条美賀子が亡くなりました。 慶喜との間には女子が誕生しますが夭折し、その後慶喜は長く京に滞在したため、約10年別居生活が続きました。 明治に入ると、10年ぶりに共に暮らすようになり、慶喜が側室との間にもうけた子はすべて美賀子を実母として育てられました。
1945年7月10日、仙台空襲が行われました。 アメリカ軍は仙台を、住宅が密集し、道路が狭い焼夷弾攻撃に適した都市と評価し、「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラをまき空襲を予告していました。 この空襲で、仙台城の大手門と脇櫓が焼失、伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿も焼失しました。