明治末の横浜の様子
1912年の4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
明治時代〜大正時代に撮影された大阪の風景
大正時代に流行したスペイン風邪は5,500万人いた日本の人口のうち、約半数が感染したといいます。 1918年10月〜1919年3月の第一波では2,100万人が感染、死者は25万人、1919年12月〜1920年3月の第二波では240万人が感染、死者は12万人、1920年12月〜1921年3月の第三波は感染者、死者ともに少数でした。
戦後に撮影された渋谷スクランブル交差点の様子
戦前に撮影された上野の風景
精神論色が強い結核予防法。 今となっては治療法が確立している結核ですが、1935年から終戦までは、「亡国病」として死因原因のトップに挙げられていました。
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
約60年前、昭和の東京の風景
1868年5月3日、江戸城が新政府軍に無血開城されました。 これにより徳川慶喜は水戸に退去し謹慎します。 江戸開城以前から大久保利通らは大阪遷都論を唱えていましたが、江戸城が無傷で手に入ったことから、遷都先として江戸が急浮上することになりました。
今日はみどりの日です。 昭和天皇の誕生日である4月29日は祝日でしたが、平成に入り天皇誕生日は移動、4月29日は引き続き祝日とされ、祝日法改正により5月4日に移動しました。 昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしいとの理由で名前が決定しました。
明治時代の初め頃に撮影された日本の風景
明治時代に撮影された長野県 中山道沿いの風景
【高杉晋作の残した言葉 】 “3年は軽挙妄動せず学問をしろ。 そのうちに活躍する時が必ず来る。 英雄は、普段は非人乞食となって潜り、いざという時に龍の如く振舞う。困ったと決して言うべきでない。困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局でも、何困らぬという気概でいれば、自ずと道が開ける”
渋沢栄一が京都へ到着した頃の登場人物たちの年齢をまとめました。 京都にて朝廷、有力諸侯らと渡り合う一橋慶喜はこの時まだ26歳でした。 #青天を衝け
約120年前に撮影されたニューヨークの風景
日本が開国した頃、フランスでは「ノゼマ」という伝染病により生糸の元となる蚕が大量死する被害を受けていました。 これを知った14代将軍徳川家茂は、蚕の卵を産み付けた蚕紙数万枚をフランスに寄贈。感激したナポレオン3世は、軍馬の品種改良に供する為のアラビア馬26頭を江戸幕府へ贈呈しました。
ここから少し笑い話。 幕末の混乱の真っ只中で、時の経過と共に品種改良の事は忘れさられ、26頭の馬は散逸してしまう。 これを知ったフランス公使は、ナポレオン3世の厚意を踏み躙ったと、遺憾の意を外務省に伝える始末。 重大な国際問題になりかねないと焦った政府は必死で馬探しを始めたという。
1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白可笑しくおどけてみせるが、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代に渡り読み継がれています。 また、太宰はその1か月後に、山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1878年5月14日、大久保利通が不平士族らによって暗殺されました。 大久保は金銭に潔白で私財を蓄えず、それどころか予算のつかなかった公共事業を私財を投じて行うほどでした。 そのため死後約2億円もの借金が残りましたが、大久保の志を知っていた債権者たちは返済を遺族に求めなかったといいます。
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が凶弾に倒れる「五・一五事件」が起こりました。 議会制民主主義が根付き始めた一方で、世界恐慌を発端とする大不況が蔓延していた最中の事件でした。 海軍将校らに歩み寄る犬養が射殺され、剰えそれが肯定されてしまったことで、軍部の台頭が加速します。
五・一五事件で犬養毅が暗殺された日、実はチャップリンも来日しており、日本の風紀を乱す彼の芸風を嫌った軍部は、この機会に暗殺を画策していました。 しかし、暗殺情報を事前に掴んでいた世話人の高野虎市の機転により、当夜に官邸で予定されていた歓迎会は中止され、喜劇王は死を免れたようです。
戦後、犬養毅の最期の言葉は『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、娘の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、死にゆく主の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。
約120年前に撮影されたニューヨークの風景