姉川の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 織田信長 36歳 木下藤吉郎 33歳 明智光秀 54歳 井伊直政 9歳 #どうする家康
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
1946年4月29日、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯28人が起訴されました。 昭和天皇の誕生日に合わせたとされており、「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」などが主に問われました。 昭和天皇は自らが退位し全責任を取ることで収められないかと考えていたといいます。
戦前に撮影された上野の風景
文治5年4月30日、源義経が亡くなりました。 奥州藤原氏の庇護を受け育ち、頼朝の挙兵に参じて兵を率い、平氏を滅ぼしました。 しかし頼朝の許可なく官位を受けたこと、自立の動きを見せたことから追討の対象となり平泉に逃れますが、庇護者であった藤原秀衡の死後、藤原泰衡に攻められ自害しました。
松平勝俊救出作戦の頃(1570)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 松平勝俊 18歳 井伊直政 9歳 於大の方 42歳 久松長家 44歳 榊原康政 22歳 本多忠勝 22歳 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 服部半蔵 28歳 武田信玄 48歳 山県昌景 41歳 武田勝頼 24歳 #どうする家康
1868年5月3日、江戸城が新政府軍に無血開城されました。 これにより徳川慶喜は水戸に退去し謹慎します。 江戸開城以前から大久保利通らは大阪遷都論を唱えていましたが、江戸城が無傷で手に入ったことから、遷都先として江戸が急浮上することになりました。
約60年前に撮影された東京の風景
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
三方ヶ原の戦い(1573)の頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 29歳 瀬名 31歳前後 本多忠勝 25歳 榊原康政 25歳 本多忠真 42歳 夏目広次 55歳 石川数正 40歳 井伊直政 11歳 水野信元 51歳前後 佐久間信盛 45歳前後 武田信玄 51歳 山県昌景 44歳 武田勝頼 27歳 #どうする家康
1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白おかしくおどけてみせるも、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代まで読み継がれています。 また、太宰は1か月後に、愛人の山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。
1573年5月13日、武田信玄が亡くなりました。 織田信長、徳川家康と対立し、三方ヶ原の戦いで勝利した4ヶ月後の突然の死でした。 信玄は自身の死を3年は秘匿することを遺言に残し、武田勝頼は遺言を守り葬儀を行わなかったといいます。 そのため、武田家では信玄は御隠居様と呼ばれ続けました。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失。 襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
明治時代の文豪、夏目漱石は、夏目吉信の子孫ではないものの同族ではあります。 夏目氏は信濃を拠点とした源氏の一族で、漱石の家系は鎌倉時代あたりで、三河に移った吉信の家系と分かれます。 その後は武蔵に土着し、漱石が生まれた頃は江戸の名主として繁栄していました。 #どうする家康
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が青年将校に暗殺される「五・一五事件」が起こりました。 政党政治が根付き始めた一方、不況により失業者が増加し、政党政治が敵視され始める中での事件でした。 青年将校らに歩み寄る犬養が射殺され、彼らの主張が肯定されたことで、軍部の台頭が加速します。
1868年5月17日、新選組局長の近藤勇が斬首されました。 鳥羽伏見の戦いの後、新選組は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いで新政府軍と戦い敗れ、下総流山に駐屯していました。 その後、新選組に背後を襲われることを恐れた新政府軍により捕縛され、元隊士に変名を見破られ、板橋にて斬首されました。
1867年5月17日、高杉晋作が亡くなりました。奇兵隊を創設し、長州藩を倒幕へ方向づけました。 辞世の句として「おもしろきこともなき世をおもしろく」との歌が残されています。 同時代の志士たちからも高杉は別格との高い評価を受けていますが、27歳の若さで肺結核により亡くなりました。
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
1910年5月19日、ハレー彗星が太陽面を通過し、地球が彗星の尾の中に入りました。 地球が彗星の尾に近づいたときに大気中にガスが充満するとのデマが流れ、ガスマスクを買う者や、瓶やゴムチューブに空気を詰める者がたくさん現れました。 日本でもゴムチューブが大量に輸入されました。
1909年5月20日、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現・味の素株式会社)から発売されました。 東京帝国大学教授の池田菊苗が「うま味」成分を発見し、甘味・酸味・塩味・苦味に次ぐ第五の味として「うま味」の存在が認識されるようになりました。 「UMAMI」は世界でも通じる言葉となっています。
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1928年5月21日、野口英世が亡くなりました。 黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル賞候補に3度名前が挙がりました。 野口は名言をたくさん残しており、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」などは現代にも通じる言葉です。
明治時代頃に撮影された広島県 安芸の宮島の風景
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほど信頼を得ていました。 政宗が亡くなった時、幕府の命令で江戸、京都の庶民に対しても服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。