家康が上洛した頃(1570年4月頃)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 茶屋四郎次郎 25歳 鳥居元忠 31歳 石川数正 37歳 織田信長 35歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)33歳 足利義昭 32歳 明智光秀 54歳 #どうする家康
1937年4月3日、満州国皇弟の愛新覚羅溥傑と嵯峨浩が結婚しました。 日本の傀儡国家、満州国との繋がりを深めるための政略結婚でしたが、夫婦仲は良く、慧生、嫮生の二人の女子にも恵まれました。 日本の敗戦後は、夫の溥傑は強制収容所に入れられ、妻の浩は日本に逃げ延び、15年後に再び再会します。
1884年4月4日、山本五十六が生まれました。 太平洋戦争時の連合艦隊司令長官で、父の56歳の時の子だったことから五十六と名付けられました。 母は五十六を45歳で出産しています。 海軍の象徴的存在で、1943年に戦死した際には、皇族、華族以外で初となる国葬が行われました。
家康を支えた豪商 茶屋四郎次郎の子孫は、幕府の御用商人として江戸時代以降も続き、尾張、水戸、紀州の御三家とも分家が繋がりました。 尾張茶屋家の当主、中島恒雄氏は、2000年に東京福祉大学を設立し、運営元の学校法人の名は茶屋四郎次郎記念学園とされています。 #どうする家康
1978年4月6日、池袋のサンシャイン60が開業しました。 1970年までは巣鴨拘置所として利用されており、戦後には東条英機らA級戦犯が処刑された場所としても有名です。 1990年に韓国の大韓生命63ビルが竣工するまでは、東洋一の高さを誇る建物でした。
明治時代に撮影された日本の風景
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没します。 死者は2,740名、生存者は269名でした。 写真は坊ノ岬沖海戦での大和の最期の姿です。
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が発足しました。 太平洋戦争を終戦に導いた首相としても有名です。 本土決戦などを唱える強硬派の軍人たちを巧みに扱いながら、和平への道筋をつけるべく尽力し、最後は昭和天皇の「聖断」に委ねるという形で終戦に持ち込みました。
今日は「忠犬ハチ公の日」です。 ハチの命日は3月8日ですが、3月はまだ寒く雪も残るため、1ヶ月後の4月8日が「忠犬ハチ公の日」とされたと言われています。 また、ハチが生まれた秋田県大館市にもハチ公の銅像があり、渋谷駅前と同様に、毎年4月8日に慰霊祭が行われています。 #ハチ
戦後すぐに撮影された渋谷 スクランブル交差点の様子
右下、三千里薬品は現在も渋谷で営業を続けています。 開業当初は食堂として営業していたものの、渋谷駅前の道路拡張により店舗面積が縮小。 1962年に薬局「三千里薬品」として再スタートを切り現在に至ります。
明治時代に撮影された中山道の風景
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
1784年4月12日、福岡県の志賀島にて「漢委奴国王印」と印字された金印が発見されました。 中国の歴史書『後漢書』には、57年に光武帝が倭奴国王に印綬を与えたと記されており、その印綬とこの金印が一致すると考えられています。 金印の一辺は2.3cm、重さは108gで、つまみは蛇をかたどっています。
明治時代に撮影された日本の風景
1912年4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
明治時代の終わり頃に撮影された東京の風景
金ヶ崎の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 渡辺守綱 28歳 石川数正 37歳 織田信長 35歳 木下藤吉郎 33歳 柴田勝家 48歳前後 明智光秀 54歳 #どうする家康
1943年4月18日、山本五十六海軍大将が戦死しました。 真珠湾攻撃の立案者であり人望の厚かった山本は、基地へ向かう途中の上空で米軍戦闘機に襲撃され、命を落としました。 山本の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えるとの理由から箝口令が敷かれており、事実が公表されたのは5月末でした。
近代以降の織田信長観の変遷 ①朝廷を重視していた信長が、明治時代に当時の最先端の勤王家の先駆けとされ、革新的な人物とされる ②敗戦で勤王家のイメージは消えるも、鉄砲やキリスト教への接し方から革新的なイメージだけ残る ③現代になって、旧来秩序を重視した人物だと再評価中 #どうする家康
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれました。 ナチスの指導者として、第一次世界大戦後のドイツで合法的な選挙によって党勢を拡大し、総統として国家権力の全てを掌握します。 著書の『我が闘争』は戦前の日本でも読まれていましたが、日本を貶める記述も多くありました。
1934年4月21日は初代忠犬ハチ公像が渋谷駅前に設置された日です。 ハチが亡くなったのは設置の翌年の1935年3月8日で、生存中に自らの像が作成・設置されたことになります。 ハチが亡くなった日にはハチ公像は花環で埋まり、大勢の人が集まったといいます。
1701年4月21日、赤穂藩主・浅野長矩が江戸城松之廊下で吉良義央を斬りつけました。 城内で刃傷に対し、将軍徳川綱吉は激怒、即日切腹を言い渡します。 その後、亡き主君の浅野長矩に代わり家臣の大石内蔵助らが吉良義央らを討ったこの一連のできごとを「赤穂事件」といいます。
明治時代に撮影された京都 嵐山の風景
明治時代に撮影された東京 上野の風景