1944年3月8日、インパール作戦が始まりました。 援蔣ルートの遮断を目的に、インド北東部のインパール攻略を目指した作戦です。 軍内部でも慎重意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行されます。 参加したほとんどの兵が死亡したため、「史上最悪の作戦」と言われています。
明治時代に撮影された京都の風景
1945年3月10日、東京大空襲が行われました。 都市部を標的とした無差別爆撃によって被災者310万人、死者11万5千人以上の被害を出しました。 アメリカ軍は東京侵入の際に、富士山を第一目標に、その後進路を東にとって東京を目指しました。
1945年3月10日 東京大空襲で焦土と化した東京の様子
1905年3月10日、日露戦争の奉天会戦で日本がロシアに勝利し、奉天を占領して奉天城に入城しました。 これを記念し「陸軍記念日」として、日本海海戦での勝利を記念した海軍記念日と並んで祝日とされました。 戦後、この祝日は廃止されています。 写真は1944年の有楽町での陸軍記念日式典の様子です。
1823年3月12日、日本海軍の生みの親である勝海舟が生まれました。 勝は9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよいました。 この時父の小吉は水垢離をして息子の回復を祈願しました。 これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったといいます。
1974年3月12日、太平洋戦争に従軍し29年間ゲリラ戦を展開していた小野田寛郎がフィリピンから帰国しました。 小野田は拾った日本の雑誌から、東京オリンピック、東海道新幹線開業など、日本が繁栄している事は知っていました。 しかしその日本はアメリカの傀儡政権であると信じていたようです。
今日は新選組の日です。 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足したことにちなみます。 その後、池田屋事件、禁門の変で活躍し、知名度も上がっていくことになります。
1930年3月15日、横浜の山下公園が開園しました。 関東大震災の復興事業として、市内のがれきなどを使って海を埋め立て造成されました。 写真は開園当初の山下公園です。
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
1537年3月17日(天文6年2月6日)豊臣秀吉が生まれました。 秀吉は人の心を掴む天才で数々の逸話が残されています。 度量も大きく、飼育係が秀吉が可愛がっていた鶴を不注意から逃してしまった際「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したといいます。
家康とお田鶴が戦った頃(1568年12月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 25歳 瀬名 26歳前後 お田鶴 18歳前後 本多忠勝 20歳 榊原康政 20歳 酒井忠次 41歳 石川数正 35歳 織田信長 34歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)31歳 武田信玄 47歳 山県昌景 39歳 穴山信君 27歳 今川氏真 30歳 #どうする家康
今日は「春分の日」です。 戦前は春季皇霊祭と呼ばれていました。 もともとこの日はお彼岸で、明治時代に、それまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ、奉祀したのが始まりです。 戦後になって「春分の日」と改称されました。
今日は「ランドセルの日」です。 「3+2+1」が小学校の修業年数の「6」になることから制定されました。 また、日本で初めて現在のランドセルの原型となる鞄を使用したのは大正天皇と言われており、1887年、天皇の学習院初等科入学の際の祝い品として、伊藤博文が献上したものでした。
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
1835年3月23日(天保6年2月25日)第4代総理大臣の松方正義が生まれました。 松方は女好きで、非常に子沢山であり、15男11女の子がいました。 明治天皇から「何人子供がいるのか」と尋ねられた際にとっさに思い出せず、「後日調査の上、ご報告申し上げます」と言ったそうです。
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変が起こりました。 大老の井伊直弼が暗殺されたこの事件は、当時の記録では「井伊直弼は急病を発し、相続願いを提出した後に病死」となっています。 これは当主死亡による井伊家の御家断絶、変を起こした水戸藩への御家断絶処分を防ぐための配慮でした。
940年3月25日(天慶3年2月14日)平将門が討死しました。 将門の首は京で晒し首となりますが、何ヶ月経っても腐らず、目を見開いていました。 やがて首は関東を目指して空高く飛び、途中で力尽きた場所が、現在の大手町にある将門塚であるといわれています。
掛川城攻めが行われた頃(1569年5月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 26歳 今川氏真 31歳 糸 21歳前後 鳥居元忠 30歳 平岩親吉 27歳 酒井忠次 42歳 石川数正 36歳 本多忠勝 21歳 榊原康政 21歳 服部半蔵 27歳 武田信玄 47歳 山県昌景 40歳 穴山信君 28歳 #どうする家康
1904年3月27日、日露戦争で広瀬武夫中佐が戦死しました。 旅順港閉塞作戦に指揮官として従軍しますが、作戦に失敗、艦の自爆準備から戻らない部下を探しに、沈みゆく艦に戻ったところを砲弾が直撃し戦死しました。 死後、日本初の軍神とされ、東京の万世橋駅には広瀬の銅像も建てられました。
今日は「三ツ矢サイダーの日」です。 「み(3)つ(2)や(8)」との語呂合わせから制定されました。 1897年には「三ツ矢印平野水」が大正天皇の御料品に採用されており、1907年には「平野シャンペンサイダー」が発売され、その3年後に「三ツ矢サイダー」が誕生しました。 #三ツ矢サイダー
#三ツ矢サイダー は明治時代に「三ツ矢平野水」として発売され、夏目漱石も愛飲し、小説にも登場するなど人気を集めました。 大正天皇の御料品としても採用されたことから「宮内省御用品」と宣伝されています。
1867年3月30日、アメリカがロシアからアラスカ一帯を購入しました。 売却額は現在の貨幣価値で約134億円でした。 当初は「巨大な保冷庫を購入した」と非難を浴びましたが、金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明、冷戦期には国境を接する重要拠点になるなど、評価が上がりました。
明治時代に撮影された安芸の宮島の風景
2002年4月1日、フィンランドの狙撃手、シモ・ヘイヘが亡くなりました。 ソ連との戦争では542名射殺の記録を残し「白い死神」と恐れられました。 戦後は猟師として余生を過ごし、大統領と猟に出ることもあったそうです。 自らがソ連から守った国境近くの町で96歳の生涯を終えました。