1854年2月13日、神奈川沖にペリーが7隻の軍艦を率いて来航します。これが2度目の来航になります。 この後、幕府は日米和親条約を結び、日本は開国を果たします。 日本開国という大スクープはすぐさま他国へ知れ渡り、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んでいます。
今日は『苗字の日』です。 江戸時代までは公的に苗字を使用したのは公家、武士ら支配層に限られ、一種の特権でした。 明治政府によって、1870年に平民にも苗字の使用が許可されましたが、あえて苗字を使用しないものも多く、1875年2月13日に苗字の使用を義務付ける『苗字必称義務令』が出されました。
今日は『バレンタインデー』です。 日本で女性が男性にチョコレートを贈るというイベントは、1936年の神戸モロゾフ製菓の新聞広告が嚆矢と言われています。 1950年代に意中の男性にチョコレートを贈る行為が広がり、同時にOLが職場の男性に贈る「義理チョコ」が登場、日本の文化として根付きました。
1877年2月15日、西南戦争が始まりました。 鹿児島では約60年ぶりの大雪の中、西郷軍は熊本に向け出発します。 一方、政府側は電信など近代的な通信網を駆使し、4日後には征討の詔を出しました。 西郷軍が熊本城を包囲する前に動き出した政府側は、その素早い動きで戦いを有利に進めていきます。
1931年2月16日、俳優の高倉健が生まれました。 共演者に対して挨拶を忘れない礼儀正しい人物であり、監督やプロデューサーだけでなく、若い新人俳優やスタッフにも、必ず立ち上がり丁寧にお辞儀して敬意を払っていました。 千葉真一は高倉を「一生あこがれの存在で永遠の師匠」と公言しています。
1942年2月19日、ルーズベルト大統領が大統領令に署名し、日系人の強制収容が行われました。 この法令は「全ての敵性外国人に向けたもの」とされましたが、ドイツ、イタリア人収容者は短期間で釈放された一方、日系人収容は長期に及び、不動産、自動車など私有財産の放棄、売却も余儀なくされました。
1945年2月19日、硫黄島の戦いでアメリカ軍が島へ上陸を開始しました。 従来の日本軍の戦術であった上陸直後の敵を攻撃する水際作戦は行われず、米軍は意外の感を受けつつ内陸へ前進します。 しかし日本軍は地下坑道で艦砲射撃に耐えつつ機会を伺っており、上陸から約3時間後、一斉攻撃を開始します。
(満年齢) 徳川家康 20歳 瀬名 21歳前後 於大の方 35歳 榊原康政 15歳 本多忠勝 15歳 石川数正 30歳 渡辺守綱 21歳 酒井忠次 36歳 登与 34歳 鳥居元忠 24歳 夏目広次 45歳 織田信長 28歳 豊臣秀吉 26歳 #どうする家康
今日は『#ねこの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。 #猫の日
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は、天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事は行われませんでしたが、祝日とされています。
今日は富士山の日です。 写真は明治時代に撮影された富士山の様子です。
1933年2月24日、国際連盟総会で日本の満州での軍事行動が否定され、それを不当とした全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場しました。 採決は42対1で否決されましたが、日本世論は、 「向こうは死に(42)体でこっちは1番なんだ」 という風に、連盟脱退へ肯定的な風潮にありました。
1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター、二・二六事件が起きました。 大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが殺害され、総理大臣の岡田啓介も首相官邸を襲われます。 天皇親政を目指して事件は起こされましたが、昭和天皇はこの蹶起に怒り、戒厳令が敷かれクーデターは鎮圧されました。
赤穂浪士の討入り、桜田門外の変、二・二六事件は、どれも「雪」を連想させる事件です。 しかし、二・二六事件は「降雪中」の事件ではありませんでした。 反乱軍による首相官邸などの襲撃が一通り済んだ午前6時頃、まだ雪は降っていなかったようです。 積もっている雪は数日前の大雪によるものでした。
三河一向一揆が始まった頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 20歳 瀬名 21歳前後 本多正信 25歳 榊原康政 15歳 本多忠勝 15歳 石川数正 30歳 渡辺守綱 21歳 酒井忠次 36歳 大久保忠世 31歳 服部半蔵 21歳 夏目広次 45歳 鳥居忠吉 73歳前後 空誓 18歳 #どうする家康
今日は『新選組の日』です。 1863年2月27日に、徳川家茂の命で新選組の原点となる「浪士組」が結成されたことにちなみます。 清河八郎によって浪士組は京都に向かうも、清河が浪士組を天皇配下の兵にしようとする画策が発覚、浪士組は江戸に戻り、芹沢鴨、近藤勇ら残留組がのちの新選組となります。
1947年2月28日、台湾で二・二八事件が起きました。 闇タバコを発売していた台湾人女性に対し、役人が暴行を加えたことに端を発し、中国国民党政権への抗議デモが行われました。 国民党政権は大陸から援軍を派遣し徹底的に弾圧、1987年に戒厳令が解除されるまで続く白色テロの始まりとなります。
江戸時代末期から明治時代初期にかけて撮影された、江戸幕府の様子が思い起こされる江戸城
1885年3月1日、渋谷駅が開業しました。 日本鉄道の駅として、赤羽 - 品川間の開通と同時の開業でした。開業日の利用者はいなかったといいます。 その後、東急線、京王線などが次々と開業、1934年には駅前に初代忠犬ハチ公像が設置されるなど、徐々に現在の渋谷駅が形作られていきます。
今日はひな祭りです。 現在のように雛人形が飾られるようになったのは、女子の人形遊びと節句の儀式が結びついた江戸時代といわれています。 平安時代より紙で作った人形を流す『流し雛』がありましたが、人形は高価で流すことはできず、鑑賞を楽しみ、終わったらすぐに片付けるスタイルになりました。
1793年3月4日、大塩平八郎が生まれました。 米不足で民衆が苦しむ中、1837年に幕府に対して反乱を起こしました。 ストイックな性格で、夕方には就寝、午前2時に起床と天体観測、武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤という自他ともに厳しい生活を送っていたといいます。
明治時代に撮影された京都の風景
三河一向一揆が始まった頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 21歳 瀬名 22歳前後 本多正信 26歳 榊原康政 16歳 本多忠勝 15歳 石川数正 31歳 酒井忠次 37歳 大久保忠世 32歳 本多忠真 33歳 夏目広次 46歳 鳥居忠吉 74歳前後 水野信元 42歳前後 空誓 19歳 #どうする家康
1890年3月6日、明治政府が丸の内を三菱に払い下げました。 当時の丸の内は荒れ野で、三菱二代目当主の弥之助は貧乏くじを引いたつもりで払い下げを受けたと言います。 その後三菱は、丸の内をレンガ造りのオフィス街へと変貌させていき、「一丁ロンドン」と揶揄される日本経済の中心地になりました。
1935年3月8日、忠犬ハチ公が亡くなりました。 ハチは玄関先や門の前で必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えもしていました。 しかし主人が急死、ハチは別の家に引き取られますが、主人の帰宅時間になると渋谷駅に行き道行く人々を眺め、道中では主人の旧宅を窓から覗く日々を繰り返しました。