1876年11月9日、野口英世が生まれました。 黄熱病や梅毒の研究に従事し、ノーベル賞候補に幾度となく名前が挙がりました。 父に似て酒好き放蕩好きな浪費家という一面もあり、留学資金を宴会で使い果たし友人に借金するなど恩師や友人から借金を重ね、借金の天才と呼ばれた一面もあります。
今日はエレベーターの日です。 1890年11月10日に浅草に完成した12階建の凌雲閣で日本初の電動式エレベーターが公開されたことを記念したものです。 しかし、当時のエレベーターはかご2機を同時に運転し1階と8階のみに止まる形式で故障も多く、のちに撤去され、1914年に再設されています。
1948年11月12日、極東国際軍事裁判の判決が下されました。 「平和に対する罪」を問われた所謂「A級戦犯」として、東条英機ら7人が絞首刑、16人が終身刑を宣告されました。 インド人判事のパールは、「平和に対する罪」は事後法であるとして、最後まで被告全員の無罪を主張していました。
1898年11月12日、ジョン万次郎が亡くなりました。 14歳の時に漁の途中で漂流し、アメリカ船に救助され、ハワイを経てアメリカ本土にたどり着きました。 その後はアメリカの学校に通い、捕鯨船員などで資金をためた後に自費で帰国しました。 帰国後は幕府、政府の欧米派遣に随行するなど活躍しました。
藤原兼子は、自身には子はいなかったものの、姪など親族が後鳥羽上皇との間に皇子を産んだことで権力を持つようになりました。 兼子が頭角を現し始めたのは、初めて結婚した45歳の頃で、一人目の夫を失った際には、兼子の政治力を求めて再婚の申込が跡を絶たなかったといいます。 #鎌倉殿の13人
1883年11月20日、天璋院篤姫が亡くなりました。 島津斉彬の養女として13代将軍徳川家定に嫁ぎ、明治維新後は16代当主徳川家達の養育にも力を注ぎました。 自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職、縁組に奔走し、死後に確認された財産は現在の価値で6万円ほどしかなかったといいます。
源仲章の血筋が、鎌倉幕府を滅ぼす後醍醐天皇につながるまで #鎌倉殿の13人
1913年11月22日、徳川15代将軍・徳川慶喜が亡くなりました。 晩年の慶喜は写真撮影、自転車、油絵、鉄砲猟、乗馬など、沢山の趣味に興じて余生を過ごしました。 急性肺炎によって76歳で亡くなりますが、歴代の徳川将軍家の中で最も長生きした将軍となりました。
1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されました。 ダラス市内をパレード中に銃撃され、多くの人々が見ている目の前で命を落としました。 犯人とされたオズワルドは、2日後に拘束された警察署内で銃撃され死亡し、法廷に立つことはなかったため、真相は現在も闇に包まれています。
今日は「新嘗祭(にいなめさい)」です。 その年の新穀をお供えし、一年の実りへの感謝とともに、国家国民の安寧を祈る日です。 昭和23年まで新嘗祭は同名の祝日でしたが、GHQ占領下において「勤労感謝の日」という名称に変更されました。
鎌倉時代の北条氏と戦国時代の小田原北条氏の血の繋がり 幕府滅亡後も足利氏と戦いを繰り広げた北条時行の末裔が、北条早雲の子、北条氏綱の妻となったことで北条を名乗ったとする説があります。 #鎌倉殿の13人
1970年11月25日、市ケ谷駐屯地において、三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自殺しました。 三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、「楯の会事件」とも呼ばれます。 国際的に有名な作家でもあったの三島の起こした事件に、世界中が驚嘆しました。
1958年11月27日、上皇陛下と美智子様が婚約を発表しました。 テニスコートでの自由恋愛により結婚に至り、初の平民出身の皇太子妃として世間の注目の的となり「ミッチー・ブーム」とも呼ばれました。 昭和のシンデレラと呼ばれた美智子様を真似てミッチースタイルといったファッションも流行りました。
1892年11月30日、福澤諭吉の後援で北里柴三郎が大日本私立衛生会伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)を設立しました。 当時、ドイツ留学帰りの北里柴三郎を日本で受け入れる機関がなく、才能が埋もれた状態でした。 これを受け、福澤諭吉が私財を投じ設立し、国内初の伝染病研究所となりました。
1958年12月1日、1万円札が発行されました。 当時は、そもそもこのような高額紙幣は発行する必要があるのかという議論がなされましたが、発行されると高度経済成長とともに順調に流通量は増え、日本の発展を支えました。 表面は聖徳太子、裏面は鳳凰、透かしには法隆寺夢殿が描かれています。
1941年12月2日、日本軍大本営が「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文により戦艦アリゾナを主標的とした真珠湾攻撃を訓電発令しました。 この6日後、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ海軍に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛け、4年にわたるアメリカとの戦争に突き進んでいきます。
藤原秀康は和田義盛の縁戚にあたる人物です。 和田義盛の弟、和田宗実の子、秀宗が、藤原秀郷の流れを汲む藤原秀忠の養子になり、藤原秀康に続いたとされます。 藤原秀康は、和田義盛が上総介任官を願い出た際に、義盛に代わって上総介になり、義盛は諦めたという因縁もありました。 #鎌倉殿の13人
1893年12月5日、幕末の会津藩主であった松平容保が亡くなりました。 会津戦争後しばらくは朝敵として蟄居の身にありましたが、1872年には許され、その後は日光東照宮の宮司を務めました。 容保の曾孫にあたる徳川恒孝が徳川宗家に養子に入ったことで、現在の徳川宗家は容保の男系子孫となっています。
1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われました。 日本海軍がハワイ真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と真珠湾基地に対して奇襲攻撃し、戦艦8隻を撃沈させます。 真珠湾攻撃を契機に、4年に渡るアメリカとの戦争が始まります。 しかし、日本の暗号は解読され、奇襲は筒抜けだったともいわれています。
真珠湾攻撃によって、アメリカとの戦争が始まった時には、多くの人々は歓喜したといわれています。 写真は皇居に戦勝を祈願する人々と宣戦布告文全文です。
1916年12月9日、夏目漱石が亡くなりました。 漱石は肺結核、糖尿病、胃潰瘍など多数の病気を抱えていました。 胃弱にも関わらず、ステーキや中華料理など脂っこい食事を好んだほか、大の甘党で、療養中にアイスクリームを欲し、無断で業務用アイス製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩をしたといいます。
1867年12月10日、坂本龍馬が暗殺されました。 龍馬は午後8時頃、中岡慎太郎と近江屋で話していたところ、十津川郷士を名乗る数人に襲撃され、ほとんど即死に近い形で殺害されました。 旧暦にはなりますが、龍馬の誕生日と命日が同じ11月15日になってしまいました。
1867年12月12日、中岡慎太郎が亡くなりました。 坂本龍馬とともに襲撃され、龍馬が即死してから2日後の死でした。 中岡は幕末では珍しい笑顔の写真が残っています。 隣に女性がいると想定されますが、中岡の頬に当てられた手と膝にかかった着物を除いて塗りつぶされてしまっています。
今日は赤穂浪士討入の日です。 1884年(明治17年)に発行された『赤穂義臣伝』より、赤穂浪士討入の様子です。 明治維新によって幕府が崩壊して以降、公儀に対する反逆者であった赤穂浪士に対して、明治天皇が泉岳寺に勅使を派遣するなど公式に顕彰する動きが出始め、赤穂浪士人気はさらに高まりました。
1973年12月14日、豊川信用金庫事件が起こりました。 女子高生の「信金は(強盗が入るから)危ない」という冗談が伝言ゲームのように伝わり、「豊川信金は危ない」と噂になり、短期間で14億円の預金が引き出されました。 信金は札束を山のように積み上げるなどして事態を収めました。