13人の合議制発足時のメンバーの年齢 北条時政 61歳 北条義時 36歳 比企能員 50代前半? 和田義盛 52歳 梶原景時 59歳 足立遠元 60代後半 三浦義澄 72歳 八田知家 57歳 安達盛長 64歳 大江広元 51歳 中原親能 56歳 二階堂行政 60代前半 三善康信 59歳 源頼家 16歳 (年齢は満年齢) #鎌倉殿の13人
約120年前、明治時代に撮影された海水浴の様子 #海の日
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
1943年7月29日、キスカ島撤退作戦で日本軍守備隊が撤退を完了しました。 キスカ島の包囲軍に全く気づかれずに、無傷で守備隊の撤収に成功したことから奇跡の作戦と呼ばれています。 撤収の際、いたずらで日本軍は『ペスト患者収容所』という看板を残したことから、アメリカ軍は大混乱したといいます。
1912年7月30日、明治天皇が亡くなりました。 明治天皇が重態になると、国民は皇居前に集まり平癒を祈願し、東京市は天皇に騒音が届かないように電車を徐行、交差点では軌道にボロ布を敷いたといいます。 明治天皇の崩御は世界各国で報道され、フィリピンでは天皇の挽歌が作られたといわれています。
1986年7月31日、杉原千畝が亡くなりました。 ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に大量のビザを発給し、避難民を救出したことで知られています。 このビザ発給は外務省の訓令に反したものですが、杉原はのちに「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」と語っています。
1945年8月1日、長岡空襲が行われました。 新潟県長岡市を標的に、午後10時半から2時間近くにわたって空襲が行われ、市街地の約8割が焼失しました。 この空襲で、市長の鶴田義隆をはじめ、1,480人余りの市民が死亡しました。
山崩れで一族滅亡した戦国大名 内ヶ島氏理 戦いに敗れて滅亡した戦国大名は数多くいますが、災害で滅亡したのは内ヶ島氏だけです。 白川郷の支配者として君臨し、上杉氏や織田氏と渡り合うも、戦国最大の地震による山崩れに城ごと飲み込まれた内ヶ島氏の歴史を紹介します! rekishock.com/%e3%80%90%e5%b…
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。 無傷の軍需工場が集中しており、また連合国軍の捕虜収容所がない等の理由から、投下目標都市に広島が決定されたといわれています。 原子爆弾「リトルボーイ」によって、当時の広島市の人口約35万人のうち、約9万~17万人が死亡したとされています。
1945年8月7日、日本初の国産ジェット機「橘花」が初飛行を行いました。 ドイツの技術をもとに開発され、飛行テストまでは成功するも、その後の修理中に終戦を迎え、実戦に投入されることはありませんでした。 大戦末期で、特攻機としてしか生産が許可されず、特攻機を表す花の字がつけられています。
1821年8月7日、伊能忠敬らが作成した日本地図「大日本沿海輿地全図」が幕府に献上されました。 見張るべきはその「正確さ」で、現代の地図と比較しても大きな誤差がありません。 近代的な測量技術と地図作成能力が、当時の日本にあったことを示す、歴史的な偉業であったといえます。
阿野全成の娘が公家に嫁ぎ、阿野の名字と領地を相続したことで阿野家は公家として残り、全成の血は天皇家にと繋がります。 養子を挟みながら昭和まで続くも、戦争で当主と後継ぎが戦死し断絶。 阿野家の墓は今も谷中霊園にひっそりと建っています。 #鎌倉殿の13人
1940年8月8日、戦艦大和が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されていませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1,000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は進水式の翌年に呉工廠にて撮影された大和です。
1945年8月9日、広島に次ぎ、長崎に原子爆弾が投下されました。 投下されたのは、広島に投下されたウラン型ではなく、アメリカが多額の予算を注ぎ込んだプルトニウム型の原子爆弾でした。 ウラン型とプルトニウム型の威力を比較・実験するために、長崎は2度目の被曝地目標になったといわれています。
原爆によって破壊された長崎・浦上天主堂
今日は山の日です。 2014年に制定され、お盆休みと連続させやすいことから、当初はお盆の前日の8月12日にする案が採用されていました。 しかし、8月12日は、御巣鷹山で日本航空123便墜落事故が起きた日で、山の日と制定するには不適切との指摘が相次ぎ、8月11日が祝日とされました。
歴史上の人物の肖像画は数多くありますが、所詮は絵なので、実際はどんな顔をしていたのか分からないものです。 その中でも、写真と肖像画の両方が残っている人物の1人が、北海道の松前藩12代藩主 松前崇広。 特徴はよく捉えられていますが、実物の方が何倍もかっこいいですね。
1985年8月12日、日本航空123便墜落事故が起きました。 東京から大阪へ向かう日本航空123便が、機体損傷により操縦不能に陥り、18時56分に御巣鷹の尾根に墜落しました。 乗客524人中520人が亡くなり、単独の飛行機での航空事故の死亡者数としては、世界最多の事故となってしまいました。
1945年8月14日、京橋駅前空襲が行われました。 約150機のB29は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下しました。 京橋駅では乗客がホームに避難していたところに、1発の1トン爆弾が高架を突き破ってホームに落下して爆発し、爆弾の直撃を受け約800人の犠牲者が出ました。
1945年8月14日、葛根廟事件が起きました。 満州国で婦女子を中心とした1,000人以上の日本人避難民がソ連軍により虐殺されました。 白旗を上げた避難民に対し、ソ連軍は攻撃を加え続け、戦車に轢かれた者も多くいました。 生き残った者も、中国人暴徒により身ぐるみ剥がされたといいます。
善児の弟子 トウは、義時の郎等として『愚管抄』に登場する「藤馬」がモデルになったといわれています。 慈円が書いた『愚管抄』によると、屋敷から逃された一幡は、比企能員の変から2ヶ月後に、義時の郎等、藤馬によって殺害されたとのことです。 #鎌倉殿の13人
1945年8月15日、終戦を迎えた人々の様子 #終戦記念日
1949年8月15日、石原莞爾が亡くなりました。 関東軍参謀として満州事変を起こし、わずか1万の兵で23万の張学良軍を相手に満州を占領しました。 石原は最終戦争として日米決戦を構想していましたが、東条英機との対立により陸軍を追いやられたことで戦後の戦犯指定を免れています。
明治時代に撮影された靖国神社
1945年8月15日、捕虜収容所にいた日本兵と、勝利を喜ぶアメリカ兵の様子 #終戦記念日