戦後に撮影された渋谷スクランブル交差点の様子。 左下のベンチで囲まれた像が1948年に再建された忠犬ハチ公像です。 1989年に駅前広場が拡張された際に、現在の位置へ移動され、駅の出口の方向へハチの顔が向く形となりました。 像の台座の高さも、触れやすい高さに変更されたそうです。
1941年4月13日、日ソ中立条約が締結されました。 調印した松岡洋右は、日独伊にソ連を加えた「四カ国構想」によって米に対抗する事を目論み、この条約でその構想が実現するはずでした。 しかし、条約締結の2ヵ月後、独が「バルバロッサ作戦」の下にソ連へ進攻したことで、松岡の構想は瓦解しました。
1912年4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
1943年4月18日、山本五十六海軍大将が戦死しました。 真珠湾攻撃の立案者であり人望の厚かった山本は、基地へ向かう途中の上空で米軍戦闘機に襲撃され、命を落としました。 山本の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えるとの理由から箝口令が敷かれており、事実が公表されたのは5月末でした。
1934年4月21日は初代忠犬ハチ公像が渋谷駅前に設置された日です。 ハチが亡くなったのはその翌年の1935年3月8日であり、生存中に自らの像が作成・設置されたことになります。 ハチが亡くなった日にはハチ公像は花環で埋まり、大勢の人が集まったといいます。
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。 #鎌倉殿の13人
1946年4月29日、東京裁判でA級戦犯28名が起訴されました。 裁判は長引き、死刑が実行されたのは2年後の1948年12月23日でした。 被告が起訴された4月29日は昭和天皇の誕生日、死刑が執行された12月23日は当時皇太子であった明仁親王の誕生日でした。 #昭和の日
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
今日はみどりの日です。 昭和天皇の誕生日である4月29日は祝日でしたが、平成に入り天皇誕生日は移動、4月29日は引き続き祝日とされ、祝日法改正により5月4日に移動しました。 昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしいとの理由で名前が決定しました。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
五・一五事件で犬養毅が暗殺された日、実はチャップリンも来日しており、日本の風紀を乱す彼の芸風を嫌った軍部は、この機会に暗殺を画策していました。 しかし、暗殺情報を事前に掴んでいた世話人の高野虎市の機転により、当夜に官邸で予定されていた歓迎会は中止され、喜劇王は死を免れたようです。
五・一五事件での犬養毅の最期の言葉は、戦後『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、孫の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、犬養の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
元弘3年5月22日は鎌倉幕府が滅亡した日です。 後醍醐天皇の討幕運動に連動し、新田義貞を中心とした軍勢が鎌倉に攻め込み、4日間の戦闘を経て追い詰められた北条高時ら北条一族は、東勝寺で一族、家臣たちと自刃しました。 源頼朝が鎌倉に入ってから153年後のことでした。 #鎌倉殿の13人
元弘3年5月22日は新田義貞ら倒幕軍によって鎌倉が攻められ、北条高時ら北条一族、幕府の中枢280人あまりが東勝寺で自害し、鎌倉幕府が滅亡した日。 よりによって5月22日の放送で、高時たちの祖先の北条義時に鎌倉攻めの策を渡す三谷脚本… #鎌倉殿の13人
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほどに信頼関係がありました。 政宗が亡くなった時、庶民に対しても江戸で7日間・京都で3日間喪に服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つである御手杵が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
「あおい」が源氏物語の葵の上由来だとしたら、大姫は何か怨霊に取り憑かれている…? 葵の上は六条御息所の生霊に取り憑かれ、若くして亡くなった人物。 病に臥せりがちと伝わる大姫がこんなに元気なのも違和感あるし、鎌倉中に災いを振りまく存在になってしまうのでは…? #鎌倉殿の13人
畠山重忠、稲毛重成、阿野全成 北条の姫を妻にした彼らの最期は悲惨そのもの… 時政りくさん夫妻、義時八重さん夫妻も、あの場にいた人たちみんなまとめて「おんたらくそわか」って大姫に呪いかけられてる…? #鎌倉殿の13人
1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響をよびました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られていました。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
1953年6月2日、エリザベス女王の戴冠式が行われました。 前年に25歳で即位しており、夫のフィリップは共同君主ではなく、Prince Consortの称号も持っていませんでした。 ウェストミンスター寺院で行われた戴冠式は、史上初めて当時の最新メディアである白黒テレビにより全世界で中継が行われました。
1942年6月5日(日本時間)、ミッドウェー海戦が始まりました。 ミッドウェー島攻略を目指す日本軍をアメリカ軍が迎え撃つ形で発生し、日本軍は赤城、加賀など空母4隻と艦載機290機などを喪失、戦死者3000名と大敗北を喫しました。 この敗戦は優勢に戦争を進めていた日本が劣勢に回る転換点となりました。