1537年3月17日(天文6年2月6日)豊臣秀吉が生まれました。 秀吉は人の心を掴む天才で数々の逸話が残されています。 度量も大きく、飼育係が秀吉が可愛がっていた鶴を不注意から逃してしまった際「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したといいます。
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
1930年3月15日、横浜の山下公園が開園しました。 関東大震災の復興事業として、市内のがれきなどを使って海を埋め立て造成されました。 写真は開園当初の山下公園です。
今日は新選組の日です。 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足したことにちなみます。 その後、池田屋事件、禁門の変で活躍し、知名度も上がっていくことになります。
1974年3月12日、太平洋戦争に従軍し29年間ゲリラ戦を展開していた小野田寛郎がフィリピンから帰国しました。 小野田は拾った日本の雑誌から、東京オリンピック、東海道新幹線開業など、日本が繁栄している事は知っていました。 しかしその日本はアメリカの傀儡政権であると信じていたようです。
1823年3月12日、日本海軍の生みの親である勝海舟が生まれました。 勝は9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよいました。 この時父の小吉は水垢離をして息子の回復を祈願しました。 これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったといいます。
1905年3月10日、日露戦争の奉天会戦で日本がロシアに勝利し、奉天を占領して奉天城に入城しました。 これを記念し「陸軍記念日」として、日本海海戦での勝利を記念した海軍記念日と並んで祝日とされました。 戦後、この祝日は廃止されています。 写真は1944年の有楽町での陸軍記念日式典の様子です。
1945年3月10日 東京大空襲で焦土と化した東京の様子
1945年3月10日、東京大空襲が行われました。 都市部を標的とした無差別爆撃によって被災者310万人、死者11万5千人以上の被害を出しました。 アメリカ軍は東京侵入の際に、富士山を第一目標に、その後進路を東にとって東京を目指しました。
明治時代に撮影された京都の風景
1944年3月8日、インパール作戦が始まりました。 援蔣ルートの遮断を目的に、インド北東部のインパール攻略を目指した作戦です。 軍内部でも慎重意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行されます。 参加したほとんどの兵が死亡したため、「史上最悪の作戦」と言われています。
1935年3月8日、忠犬ハチ公が亡くなりました。 ハチは玄関先や門の前で必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えもしていました。 しかし主人が急死、ハチは別の家に引き取られますが、主人の帰宅時間になると渋谷駅に行き道行く人々を眺め、道中では主人の旧宅を窓から覗く日々を繰り返しました。
1890年3月6日、明治政府が丸の内を三菱に払い下げました。 当時の丸の内は荒れ野で、三菱二代目当主の弥之助は貧乏くじを引いたつもりで払い下げを受けたと言います。 その後三菱は、丸の内をレンガ造りのオフィス街へと変貌させていき、「一丁ロンドン」と揶揄される日本経済の中心地になりました。
三河一向一揆が始まった頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 21歳 瀬名 22歳前後 本多正信 26歳 榊原康政 16歳 本多忠勝 15歳 石川数正 31歳 酒井忠次 37歳 大久保忠世 32歳 本多忠真 33歳 夏目広次 46歳 鳥居忠吉 74歳前後 水野信元 42歳前後 空誓 19歳 #どうする家康
明治時代に撮影された京都の風景
1793年3月4日、大塩平八郎が生まれました。 米不足で民衆が苦しむ中、1837年に幕府に対して反乱を起こしました。 ストイックな性格で、夕方には就寝、午前2時に起床と天体観測、武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤という自他ともに厳しい生活を送っていたといいます。
今日はひな祭りです。 現在のように雛人形が飾られるようになったのは、女子の人形遊びと節句の儀式が結びついた江戸時代といわれています。 平安時代より紙で作った人形を流す『流し雛』がありましたが、人形は高価で流すことはできず、鑑賞を楽しみ、終わったらすぐに片付けるスタイルになりました。
1885年3月1日、渋谷駅が開業しました。 日本鉄道の駅として、赤羽 - 品川間の開通と同時の開業でした。開業日の利用者はいなかったといいます。 その後、東急線、京王線などが次々と開業、1934年には駅前に初代忠犬ハチ公像が設置されるなど、徐々に現在の渋谷駅が形作られていきます。
江戸時代末期から明治時代初期にかけて撮影された、江戸幕府の様子が思い起こされる江戸城
1947年2月28日、台湾で二・二八事件が起きました。 闇タバコを発売していた台湾人女性に対し、役人が暴行を加えたことに端を発し、中国国民党政権への抗議デモが行われました。 国民党政権は大陸から援軍を派遣し徹底的に弾圧、1987年に戒厳令が解除されるまで続く白色テロの始まりとなります。
今日は『新選組の日』です。 1863年2月27日に、徳川家茂の命で新選組の原点となる「浪士組」が結成されたことにちなみます。 清河八郎によって浪士組は京都に向かうも、清河が浪士組を天皇配下の兵にしようとする画策が発覚、浪士組は江戸に戻り、芹沢鴨、近藤勇ら残留組がのちの新選組となります。
三河一向一揆が始まった頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 20歳 瀬名 21歳前後 本多正信 25歳 榊原康政 15歳 本多忠勝 15歳 石川数正 30歳 渡辺守綱 21歳 酒井忠次 36歳 大久保忠世 31歳 服部半蔵 21歳 夏目広次 45歳 鳥居忠吉 73歳前後 空誓 18歳 #どうする家康
赤穂浪士の討入り、桜田門外の変、二・二六事件は、どれも「雪」を連想させる事件です。 しかし、二・二六事件は「降雪中」の事件ではありませんでした。 反乱軍による首相官邸などの襲撃が一通り済んだ午前6時頃、まだ雪は降っていなかったようです。 積もっている雪は数日前の大雪によるものでした。
1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター、二・二六事件が起きました。 大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが殺害され、総理大臣の岡田啓介も首相官邸を襲われます。 天皇親政を目指して事件は起こされましたが、昭和天皇はこの蹶起に怒り、戒厳令が敷かれクーデターは鎮圧されました。
1933年2月24日、国際連盟総会で日本の満州での軍事行動が否定され、それを不当とした全権大使・松岡洋右は連盟脱退を宣言し退場しました。 採決は42対1で否決されましたが、日本世論は、 「向こうは死に(42)体でこっちは1番なんだ」 という風に、連盟脱退へ肯定的な風潮にありました。