三方ヶ原の戦い(1573)の頃の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 29歳 瀬名 31歳前後 本多忠勝 25歳 榊原康政 25歳 本多忠真 42歳 夏目広次 55歳 石川数正 40歳 井伊直政 11歳 水野信元 51歳前後 佐久間信盛 45歳前後 武田信玄 51歳 山県昌景 44歳 武田勝頼 27歳 #どうする家康
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
約60年前に撮影された東京の風景
1868年5月3日、江戸城が新政府軍に無血開城されました。 これにより徳川慶喜は水戸に退去し謹慎します。 江戸開城以前から大久保利通らは大阪遷都論を唱えていましたが、江戸城が無傷で手に入ったことから、遷都先として江戸が急浮上することになりました。
松平勝俊救出作戦の頃(1570)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 松平勝俊 18歳 井伊直政 9歳 於大の方 42歳 久松長家 44歳 榊原康政 22歳 本多忠勝 22歳 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 服部半蔵 28歳 武田信玄 48歳 山県昌景 41歳 武田勝頼 24歳 #どうする家康
文治5年4月30日、源義経が亡くなりました。 奥州藤原氏の庇護を受け育ち、頼朝の挙兵に参じて兵を率い、平氏を滅ぼしました。 しかし頼朝の許可なく官位を受けたこと、自立の動きを見せたことから追討の対象となり平泉に逃れますが、庇護者であった藤原秀衡の死後、藤原泰衡に攻められ自害しました。
戦前に撮影された上野の風景
1946年4月29日、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯28人が起訴されました。 昭和天皇の誕生日に合わせたとされており、「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」などが主に問われました。 昭和天皇は自らが退位し全責任を取ることで収められないかと考えていたといいます。
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。
姉川の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 石川数正 37歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 織田信長 36歳 木下藤吉郎 33歳 明智光秀 54歳 井伊直政 9歳 #どうする家康
明治時代に撮影された東京 上野の風景
明治時代に撮影された京都 嵐山の風景
1701年4月21日、赤穂藩主・浅野長矩が江戸城松之廊下で吉良義央を斬りつけました。 城内で刃傷に対し、将軍徳川綱吉は激怒、即日切腹を言い渡します。 その後、亡き主君の浅野長矩に代わり家臣の大石内蔵助らが吉良義央らを討ったこの一連のできごとを「赤穂事件」といいます。
1934年4月21日は初代忠犬ハチ公像が渋谷駅前に設置された日です。 ハチが亡くなったのは設置の翌年の1935年3月8日で、生存中に自らの像が作成・設置されたことになります。 ハチが亡くなった日にはハチ公像は花環で埋まり、大勢の人が集まったといいます。
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれました。 ナチスの指導者として、第一次世界大戦後のドイツで合法的な選挙によって党勢を拡大し、総統として国家権力の全てを掌握します。 著書の『我が闘争』は戦前の日本でも読まれていましたが、日本を貶める記述も多くありました。
近代以降の織田信長観の変遷 ①朝廷を重視していた信長が、明治時代に当時の最先端の勤王家の先駆けとされ、革新的な人物とされる ②敗戦で勤王家のイメージは消えるも、鉄砲やキリスト教への接し方から革新的なイメージだけ残る ③現代になって、旧来秩序を重視した人物だと再評価中 #どうする家康
1943年4月18日、山本五十六海軍大将が戦死しました。 真珠湾攻撃の立案者であり人望の厚かった山本は、基地へ向かう途中の上空で米軍戦闘機に襲撃され、命を落としました。 山本の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えるとの理由から箝口令が敷かれており、事実が公表されたのは5月末でした。
金ヶ崎の戦いが起きた時の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 酒井忠次 43歳 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 平岩親吉 28歳 渡辺守綱 28歳 石川数正 37歳 織田信長 35歳 木下藤吉郎 33歳 柴田勝家 48歳前後 明智光秀 54歳 #どうする家康
明治時代の終わり頃に撮影された東京の風景
1912年4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
明治時代に撮影された日本の風景
1784年4月12日、福岡県の志賀島にて「漢委奴国王印」と印字された金印が発見されました。 中国の歴史書『後漢書』には、57年に光武帝が倭奴国王に印綬を与えたと記されており、その印綬とこの金印が一致すると考えられています。 金印の一辺は2.3cm、重さは108gで、つまみは蛇をかたどっています。
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
明治時代に撮影された中山道の風景