右下、三千里薬品は現在も渋谷で営業を続けています。 開業当初は食堂として営業していたものの、渋谷駅前の道路拡張により店舗面積が縮小。 1962年に薬局「三千里薬品」として再スタートを切り現在に至ります。
戦後すぐに撮影された渋谷 スクランブル交差点の様子
今日は「忠犬ハチ公の日」です。 ハチの命日は3月8日ですが、3月はまだ寒く雪も残るため、1ヶ月後の4月8日が「忠犬ハチ公の日」とされたと言われています。 また、ハチが生まれた秋田県大館市にもハチ公の銅像があり、渋谷駅前と同様に、毎年4月8日に慰霊祭が行われています。 #ハチ
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が発足しました。 太平洋戦争を終戦に導いた首相としても有名です。 本土決戦などを唱える強硬派の軍人たちを巧みに扱いながら、和平への道筋をつけるべく尽力し、最後は昭和天皇の「聖断」に委ねるという形で終戦に持ち込みました。
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没します。 死者は2,740名、生存者は269名でした。 写真は坊ノ岬沖海戦での大和の最期の姿です。
明治時代に撮影された日本の風景
1978年4月6日、池袋のサンシャイン60が開業しました。 1970年までは巣鴨拘置所として利用されており、戦後には東条英機らA級戦犯が処刑された場所としても有名です。 1990年に韓国の大韓生命63ビルが竣工するまでは、東洋一の高さを誇る建物でした。
家康を支えた豪商 茶屋四郎次郎の子孫は、幕府の御用商人として江戸時代以降も続き、尾張、水戸、紀州の御三家とも分家が繋がりました。 尾張茶屋家の当主、中島恒雄氏は、2000年に東京福祉大学を設立し、運営元の学校法人の名は茶屋四郎次郎記念学園とされています。 #どうする家康
1884年4月4日、山本五十六が生まれました。 太平洋戦争時の連合艦隊司令長官で、父の56歳の時の子だったことから五十六と名付けられました。 母は五十六を45歳で出産しています。 海軍の象徴的存在で、1943年に戦死した際には、皇族、華族以外で初となる国葬が行われました。
1937年4月3日、満州国皇弟の愛新覚羅溥傑と嵯峨浩が結婚しました。 日本の傀儡国家、満州国との繋がりを深めるための政略結婚でしたが、夫婦仲は良く、慧生、嫮生の二人の女子にも恵まれました。 日本の敗戦後は、夫の溥傑は強制収容所に入れられ、妻の浩は日本に逃げ延び、15年後に再び再会します。
家康が上洛した頃(1570年4月頃)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 27歳 瀬名 28歳前後 浅井長政 25歳 お市 20歳前後 本多忠勝 22歳 榊原康政 22歳 茶屋四郎次郎 25歳 鳥居元忠 31歳 石川数正 37歳 織田信長 35歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)33歳 足利義昭 32歳 明智光秀 54歳 #どうする家康
2002年4月1日、フィンランドの狙撃手、シモ・ヘイヘが亡くなりました。 ソ連との戦争では542名射殺の記録を残し「白い死神」と恐れられました。 戦後は猟師として余生を過ごし、大統領と猟に出ることもあったそうです。 自らがソ連から守った国境近くの町で96歳の生涯を終えました。
明治時代に撮影された安芸の宮島の風景
1867年3月30日、アメリカがロシアからアラスカ一帯を購入しました。 売却額は現在の貨幣価値で約134億円でした。 当初は「巨大な保冷庫を購入した」と非難を浴びましたが、金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明、冷戦期には国境を接する重要拠点になるなど、評価が上がりました。
#三ツ矢サイダー は明治時代に「三ツ矢平野水」として発売され、夏目漱石も愛飲し、小説にも登場するなど人気を集めました。 大正天皇の御料品としても採用されたことから「宮内省御用品」と宣伝されています。
今日は「三ツ矢サイダーの日」です。 「み(3)つ(2)や(8)」との語呂合わせから制定されました。 1897年には「三ツ矢印平野水」が大正天皇の御料品に採用されており、1907年には「平野シャンペンサイダー」が発売され、その3年後に「三ツ矢サイダー」が誕生しました。 #三ツ矢サイダー
1904年3月27日、日露戦争で広瀬武夫中佐が戦死しました。 旅順港閉塞作戦に指揮官として従軍しますが、作戦に失敗、艦の自爆準備から戻らない部下を探しに、沈みゆく艦に戻ったところを砲弾が直撃し戦死しました。 死後、日本初の軍神とされ、東京の万世橋駅には広瀬の銅像も建てられました。
掛川城攻めが行われた頃(1569年5月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 26歳 今川氏真 31歳 糸 21歳前後 鳥居元忠 30歳 平岩親吉 27歳 酒井忠次 42歳 石川数正 36歳 本多忠勝 21歳 榊原康政 21歳 服部半蔵 27歳 武田信玄 47歳 山県昌景 40歳 穴山信君 28歳 #どうする家康
940年3月25日(天慶3年2月14日)平将門が討死しました。 将門の首は京で晒し首となりますが、何ヶ月経っても腐らず、目を見開いていました。 やがて首は関東を目指して空高く飛び、途中で力尽きた場所が、現在の大手町にある将門塚であるといわれています。
1860年3月24日(安政7年3月3日)桜田門外の変が起こりました。 大老の井伊直弼が暗殺されたこの事件は、当時の記録では「井伊直弼は急病を発し、相続願いを提出した後に病死」となっています。 これは当主死亡による井伊家の御家断絶、変を起こした水戸藩への御家断絶処分を防ぐための配慮でした。
1835年3月23日(天保6年2月25日)第4代総理大臣の松方正義が生まれました。 松方は女好きで、非常に子沢山であり、15男11女の子がいました。 明治天皇から「何人子供がいるのか」と尋ねられた際にとっさに思い出せず、「後日調査の上、ご報告申し上げます」と言ったそうです。
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
今日は「ランドセルの日」です。 「3+2+1」が小学校の修業年数の「6」になることから制定されました。 また、日本で初めて現在のランドセルの原型となる鞄を使用したのは大正天皇と言われており、1887年、天皇の学習院初等科入学の際の祝い品として、伊藤博文が献上したものでした。
今日は「春分の日」です。 戦前は春季皇霊祭と呼ばれていました。 もともとこの日はお彼岸で、明治時代に、それまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ、奉祀したのが始まりです。 戦後になって「春分の日」と改称されました。
家康とお田鶴が戦った頃(1568年12月)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 25歳 瀬名 26歳前後 お田鶴 18歳前後 本多忠勝 20歳 榊原康政 20歳 酒井忠次 41歳 石川数正 35歳 織田信長 34歳 木下藤吉郎(豊臣秀吉)31歳 武田信玄 47歳 山県昌景 39歳 穴山信君 27歳 今川氏真 30歳 #どうする家康