1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られています。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
1945年5月29日、横浜大空襲が行われました。 約600機による空襲で8千〜1万人の死者を出しました。 焼夷弾攻撃のデータ収集のために木造住宅の密集地を事前に調べ、焼夷弾で狙い撃ちする作戦だったといわれています。 昼間の空襲であったことから、日本軍も反撃し、B-29を7機撃墜する戦果を挙げました。
千代が瀬名の元を訪れたのは史料にある記述が基となっています。 江戸時代の『岡崎東泉記』によれば、甲斐の歩き巫女はこの頃岡崎に入っており、勝頼は歩き巫女を通じて築山殿と接触を図りました。 巫女は築山殿へ対面を果たし、築山殿は大岡弥四郎らの謀反計画に加担したとされます。 #どうする家康
大岡弥四郎事件の頃(1575年4月頃)の登場人物の年齢(満年齢) 徳川家康 32歳 瀬名 33歳前後 徳川信康 15歳 亀 14歳 五徳 15歳 酒井忠次 48歳 石川数正 42歳 本多忠勝 27歳 榊原康政 27歳 井伊直政 14歳 平岩親吉 33歳 穴山信君 34歳 武田勝頼 29歳 #どうする家康
明治時代に撮影された富士山
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
織田信長に滅ばされた浅井長政の血筋が天皇陛下に繋がるまで #どうする家康
1899年5月25日、山陽鉄道において、官設鉄道の急行列車に日本で初めて食堂車が連結されました。 当時の食堂車のメニューは洋食のみで、また、列車は揺れが激しく、ゆったりと食事をするのは困難を極めたそうです。 それでも「汽車で景色を見ながら洋食を食べるなんて非常にモダンだ」と好評でした。
1977年5月25日、スター・ウォーズがアメリカで公開されました。 世界歴代興行収入記録を持っていた『ジョーズ』を上回り、『E・T』に抜かれるまで記録を保持し続けました。 完成当初は子供向けのB級映画と評判は悪く、監督のジョージ・ルーカスも大失敗と思い込んでいたといいます。
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つ「御手杵」が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほど信頼を得ていました。 政宗が亡くなった時、幕府の命令で江戸、京都の庶民に対しても服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。
明治時代頃に撮影された広島県 安芸の宮島の風景
1928年5月21日、野口英世が亡くなりました。 黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル賞候補に3度名前が挙がりました。 野口は名言をたくさん残しており、「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」などは現代にも通じる言葉です。
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1909年5月20日、うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現・味の素株式会社)から発売されました。 東京帝国大学教授の池田菊苗が「うま味」成分を発見し、甘味・酸味・塩味・苦味に次ぐ第五の味として「うま味」の存在が認識されるようになりました。 「UMAMI」は世界でも通じる言葉となっています。
1910年5月19日、ハレー彗星が太陽面を通過し、地球が彗星の尾の中に入りました。 地球が彗星の尾に近づいたときに大気中にガスが充満するとのデマが流れ、ガスマスクを買う者や、瓶やゴムチューブに空気を詰める者がたくさん現れました。 日本でもゴムチューブが大量に輸入されました。
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
1867年5月17日、高杉晋作が亡くなりました。奇兵隊を創設し、長州藩を倒幕へ方向づけました。 辞世の句として「おもしろきこともなき世をおもしろく」との歌が残されています。 同時代の志士たちからも高杉は別格との高い評価を受けていますが、27歳の若さで肺結核により亡くなりました。
1868年5月17日、新選組局長の近藤勇が斬首されました。 鳥羽伏見の戦いの後、新選組は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いで新政府軍と戦い敗れ、下総流山に駐屯していました。 その後、新選組に背後を襲われることを恐れた新政府軍により捕縛され、元隊士に変名を見破られ、板橋にて斬首されました。
1932年5月15日、内閣総理大臣の犬養毅が青年将校に暗殺される「五・一五事件」が起こりました。 政党政治が根付き始めた一方、不況により失業者が増加し、政党政治が敵視され始める中での事件でした。 青年将校らに歩み寄る犬養が射殺され、彼らの主張が肯定されたことで、軍部の台頭が加速します。
明治時代の文豪、夏目漱石は、夏目吉信の子孫ではないものの同族ではあります。 夏目氏は信濃を拠点とした源氏の一族で、漱石の家系は鎌倉時代あたりで、三河に移った吉信の家系と分かれます。 その後は武蔵に土着し、漱石が生まれた頃は江戸の名主として繁栄していました。 #どうする家康
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失。 襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
1573年5月13日、武田信玄が亡くなりました。 織田信長、徳川家康と対立し、三方ヶ原の戦いで勝利した4ヶ月後の突然の死でした。 信玄は自身の死を3年は秘匿することを遺言に残し、武田勝頼は遺言を守り葬儀を行わなかったといいます。 そのため、武田家では信玄は御隠居様と呼ばれ続けました。
1948年5月12日、太宰治が『人間失格』を脱稿しました。 他人の前では面白おかしくおどけてみせるも、本当の自分を誰にも曝け出すことの出来ない男の人生をその男の視点で描いた作品で、現代まで読み継がれています。 また、太宰は1か月後に、愛人の山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しています。