1945年8月14日、京橋駅前空襲が行われました。 約150機のB29は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下しました。 京橋駅では乗客がホームに避難していたところに、1発の1トン爆弾が高架を突き破ってホームに落下して爆発し、爆弾の直撃を受け約800人の犠牲者が出ました。
明治時代に撮影された京都の風景
1935年8月12日、皇道派の相沢三郎が、統制派の永田鉄山を斬殺しました。 統制派が皇道派の追放を試みた事への反感から起こった事件で、のちの二・二六事件へ繋がっていきます。 永田鉄山の軍人としての評価は高く、「永田鉄山が生きてたら太平洋戦争は起きなかった」とも語られる程だったとか。
1930年代の東京駅
倒壊した長崎・浦上天主堂
1945年8月9日、広島に次ぎ、長崎に原子爆弾が投下されました。 投下されたのは、広島に投下されたウラン型ではなく、アメリカが多額の予算を注ぎ込んだプルトニウム型の原子爆弾でした。 ウラン型とプルトニウム型の威力を比較・実験するために、長崎は2度目の被曝地目標になったといわれています。
1964年東京オリンピックの閉会式の様子です。 各国の選手団は係員の指示に従わず、入り乱ればらばらに行進しました。 様々な国の選手が入り混じり腕や肩を組み合い入場する、かつて見られなかった形となり、「平和の祭典」を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなったといいます。
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の日本の風景
1940年8月8日、「戦艦大和」が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されてませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は、翌年呉工廠にて最終艤装中の大和です。
アメリカ人写真家によって撮影された約120年前の人々の暮らし
1821年8月7日、伊能忠敬らが作成した日本地図「大日本沿海輿地全図」が幕府に献上されました。 見張るべきはその「正確さ」で、現代の地図と比較しても大きな誤差がありません。 近代的な測量技術と地図作成能力が、当時の日本にあったことを示す、歴史的な偉業であったといえます。
焼け野原となった広島の地を歩く日本兵
1945年8月6日、原爆投下直後の広島の様子
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。 無傷の軍需工場が集中しており、また連合国軍の捕虜収容所がない等の理由から、投下目標都市に広島が決定されたといわれています。 原子爆弾「リトルボーイ」によって、当時の広島市の人口約35万人のうち、約9万~17万人が死亡したとされています。
明治時代に撮影された会津藩の本拠地会津若松城の様子。 戊辰戦争から5年後の1873年に城内の建物は解体されました。
1931年8月2日、日本人女性初のオリンピックメダリストの人見絹枝が亡くなりました。 アムステルダム五輪800m走で銀メダルを獲得しますが、そのちょうど3年後に肺炎で亡くなりました。 師の二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」との言葉を残しています。
浅草・花屋敷の昔と今
1986年7月31日、杉原千畝が亡くなりました。 ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に大量のビザを発給し、避難民を救出したことで知られています。 このビザ発給は外務省の訓令に反したものですが、杉原はのちに「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」と語っています。
1912年7月30日、明治天皇が亡くなりました。 明治天皇が重態になると、国民は皇居前に集まり平癒を祈願し、東京市は天皇に騒音が届かないように電車を徐行、交差点では軌道にボロ布を敷いたといいます。 明治天皇の崩御は世界各国で報道され、フィリピンでは天皇の挽歌が作られたといわれています。
クスッとくる洒落英語(大正15年)
約120年前、明治時代に撮影された日本人の暮らし
1964年東京オリンピックの開会式の様子です。 1945年8月6日、原爆投下の1時間後に生まれた最終ランナー坂井義則による聖火点灯は日本復興の象徴となりました。 10万人以上の観客が見守る中、参加94ヵ国、7060人の選手団による入場行進が行われ、東京オリンピックが始まりました。 #tokyo2020
1964年東京オリンピックの開会式には昭和天皇をはじめ多くの皇族の方々が臨席しました。 写真は選手団の入場を迎える昭和天皇と、当時皇太子であった上皇陛下ご夫妻、当時4歳の天皇陛下です。 #Tokyo2020 #TokyoOlympics
1964年東京オリンピック開会式当日、#ブルーインパルス によって会場上空に描かれた五輪の様子です。 天気予報では雨予報であったことから、隊員たちは新橋で深夜まで飲み会をしており、翌朝快晴の空を見て、二日酔いのまま慌てて入間基地に向かったといいます。 #TokyoOlympics
約70年前に撮影された渋谷と現在の渋谷の比較