1945年3月10日 東京大空襲で焦土と化した東京
1945年3月10日、東京大空襲が行われました。 都市部を標的とした無差別爆撃によって被災者310万人、死者11万5千人以上の被害を出しました。 アメリカ軍は東京侵入の際に、富士山を第一目標に、その後進路を東にとって東京を目指しました。
1935年3月8日、忠犬ハチ公が亡くなりました。 ハチは玄関先や門の前で必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えもしていました。 しかし主人が急死、ハチは別の家に引き取られますが、主人の帰宅時間になると渋谷駅に行き道行く人々を眺め、道中では主人の旧宅を窓から覗く日々を繰り返しました。
明治時代に撮影された京都の風景
今日はバウムクーヘンの日です。 1919年3月4日に、現在の原爆ドームである広島県物産陳列館で行われた「ドイツ作品展示会」にて、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたことに由来します。 製作者のドイツ人カール・ユーハイムは、第一次世界大戦で捕虜として日本に連行された人物でした。
今日はひな祭りです。 現在のように雛人形が飾られるようになったのは、女子の人形遊びと節句の儀式が結びついた江戸時代といわれています。 平安時代より紙で作った人形を流す『流し雛』がありましたが、人形は高価で流すことはできず、鑑賞を楽しみ、終わったらすぐに片付けるスタイルになりました。
今日は『新選組の日』です。 1863年2月27日に、徳川家茂の命で新選組の原点となる「浪士組」が結成されたことにちなみます。 清河八郎によって浪士組は京都に向かうも、清河が浪士組を天皇配下の兵にしようとする画策が発覚、浪士組は江戸に戻り、芹沢鴨、近藤勇ら残留組がのちの新選組となります。
赤穂浪士の討入り、桜田門外の変、二・二六事件は、どれも「雪」を連想させる事件です。 しかし、二・二六事件は「降雪中」の事件ではありませんでした。 反乱軍による首相官邸などの襲撃が一通り済んだ午前6時頃、まだ雪は降っていなかったようです。 積もっている雪は数日前の大雪によるものでした。
1936年2月26日、日本陸軍の青年将校らによるクーデター「二・二六事件」が起きました。 この事件により、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らが殺害されました。 昭和天皇は、当初よりこの蹶起に批判的で、「君側の奸」を排除せんという将校らの思惑は一蹴されました。
今日は富士山の日です。 写真は明治時代に撮影された富士山の様子です。
今日は天皇誕生日(天長節)です。 大正時代は天皇誕生日による祝日が年2回ありました。 大正天皇の誕生日は8月31日ですが、気温が高く、式典を行うのが困難であることから、10月31日が天長節祝日とされ式典が行われました。 8月31日は何も行事はありませんが、祝日とされました。
今日は『ネコの日』です。 ネコはネズミの害から穀物を守るために奈良時代頃に中国から輸入され、以降長きにわたって鼠害防止の益獣、および貴重な愛玩動物として扱われました。 江戸時代にはネコが貴重で少なかったため、ネズミ駆除のために猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいました。
今日は『苗字の日』です。 江戸時代までは公的に苗字を使用したのは公家、武士ら支配層に限られ、一種の特権でした。 明治政府によって、1870年に平民にも苗字の使用が許可されましたが、あえて苗字を使用しないものも多く、1875年2月13日に苗字の使用を義務付ける『苗字必称義務令』が出されました。
1889年2月11日、 大日本帝国憲法が発布されました。 近代日本で初めての憲法で、当時のプロイセンの憲法を基礎に制定されました。 また、この日に発行された官報号外『大日本帝国憲法』において、日付に関する誤字があり、流通した全てが自主回収されるという、官報史上最大の誤記事件が起きました。
建国記念日は、戦前は神武天皇の即位日である紀元節という祝日となっていました。 1940年は皇紀2600年にあたり、11月に紀元二千六百年式典が盛大に行われました。 しかし、式典終了後は戦争中であったことから、式典ポスターが一斉に「さあ働こう」に張り替えられたようです。
今日は建国記念の日です。 戦前は紀元節と呼ばれていましたが、戦後GHQによって削除され、1967年に佐藤栄作内閣によって建国記念の日として復活しました。 今年は初代天皇の神武天皇が紀元前660年2月11日に即位してから2682年目、皇紀2682年となります。
1989年2月9日、漫画家の手塚治虫が亡くなりました。 来る仕事を殆ど拒まなかったため、常に原稿の締め切りに追われていたんだそう。 その所為なのか、鉛筆で下書きをせずにペン入れしたり、揺れるタクシーや飛行機の中でも、フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができたようです。
1923年2月5日、国際刑事警察機構(ICPO=インターポール)が設立されました。 ICPOの職員は、手配書発行や地元警察と連携し犯人の居場所の特定などはできますが、逮捕したり法的措置を取ることはできません。 なので、細かいことを言えば、銭形幸一はルパン三世を逮捕することはできません。
1972年2月2日、グアム島に隠れ続けていた元日本兵・横井庄一が帰国しました。 ジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活しており、エビやウナギを採って生きながらえました。 帰国後の記者会見の言葉を捉えた「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となりました。
1905年1月28日、竹島を島根県隠岐島庁に編入する閣議決定がなされ、竹島が正式に日本の領土となりました。 写真は竹島の漁民と韓国鬱陵島からの出稼ぎの海女の様子です。 記録には、海女への給与150円とあり、男たちの給与が100円であったことから、彼女らの技量が評価されていたことがわかります。
ルー大柴感漂う、大正時代の英語雑誌
明治時代に撮影された園城寺 #鎌倉殿の13人
1951年1月19日、実業家の星一が亡くなりました。 それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功するなど、「東洋の製薬王」と呼ばれました。また、彼が創業した星製薬は「チェーンストア」という販売方式を日本で初めて確立しました。 ちなみに、長男はSF作家の星新一です。
1889年1月18日、石原莞爾が生まれました。 関東軍の参謀として満州事変を起こし、約1万人の兵力で23万の敵軍を相手に立ち回り、満州を占領しました。 東京裁判では、連合国が日清、日露戦争の頃まで歴史をさかのぼり戦争責任を問うと言った際、だったらペリーを連れてこいと反論した逸話もあります。
1919年1月16日、酒の製造や販売などを禁じた禁酒法がアメリカ議会を通過し、翌年に施行されました。 しかし、飲酒を完全に規制することは難しく、秘密の酒場(スピークイージー)が繁昌し、密造酒も高額で売買されました。 写真は禁酒が徹底されていない様子を皮肉った広告です(1926年頃)。