五・一五事件で犬養毅が暗殺された日、実はチャップリンも来日しており、日本の風紀を乱す彼の芸風を嫌った軍部は、この機会に暗殺を画策していました。 しかし、暗殺情報を事前に掴んでいた世話人の高野虎市の機転により、当夜に官邸で予定されていた歓迎会は中止され、喜劇王は死を免れたようです。
1945年5月14日、名古屋大空襲で名古屋城が焼失しました。 国宝に指定されていた名古屋城は天守や本丸御殿など主要建物の多くを焼失、襖、障子などは空襲直前に取り外され移動してあったため、一部は難を逃れました。 屋根瓦が銅板葺になっていたことから、城は青い炎を上げて燃えていたといいます。
今日はみどりの日です。 昭和天皇の誕生日である4月29日は祝日でしたが、平成に入り天皇誕生日は移動、4月29日は引き続き祝日とされ、祝日法改正により5月4日に移動しました。 昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしいとの理由で名前が決定しました。
今日は昭和の日です。 昭和天皇の誕生日として長らく休日とされていましたが、ゴールデンウィークの一角を構成する休日の廃止は影響が大きいことから残され、現在に至ります。 祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされています。
1946年4月29日、東京裁判でA級戦犯28名が起訴されました。 裁判は長引き、死刑が実行されたのは2年後の1948年12月23日でした。 被告が起訴された4月29日は昭和天皇の誕生日、死刑が執行された12月23日は当時皇太子であった明仁親王の誕生日でした。 #昭和の日
1185年4月25日、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡しました。 6歳の安徳天皇をはじめ、母の建礼門院、平宗盛、平知盛ら一門が次々と入水しました。 この内、平宗盛、平時忠、建礼門院らが生き残り京に護送され、総帥であった平宗盛は斬首、平時忠は流罪、建礼門院は出家し余生を送りました。 #鎌倉殿の13人
1934年4月21日は初代忠犬ハチ公像が渋谷駅前に設置された日です。 ハチが亡くなったのはその翌年の1935年3月8日であり、生存中に自らの像が作成・設置されたことになります。 ハチが亡くなった日にはハチ公像は花環で埋まり、大勢の人が集まったといいます。
1943年4月18日、山本五十六海軍大将が戦死しました。 真珠湾攻撃の立案者であり人望の厚かった山本は、基地へ向かう途中の上空で米軍戦闘機に襲撃され、命を落としました。 山本の戦死は全軍の士気に大きな影響を与えるとの理由から箝口令が敷かれており、事実が公表されたのは5月末でした。
1912年4月15日、タイタニック号が沈没しました。 当時最大の蒸気機関船であった豪華客船のあっけない最期でした。 また、 ①操縦士の異常な操縦 ②船に総額500億円ほどの保険金がかけられていた ③船の実質的なオーナー、ジョン・モルガンが処女航海に乗船しなかった など、不審な点が残ります。
1941年4月13日、日ソ中立条約が締結されました。 調印した松岡洋右は、日独伊にソ連を加えた「四カ国構想」によって米に対抗する事を目論み、この条約でその構想が実現するはずでした。 しかし、条約締結の2ヵ月後、独が「バルバロッサ作戦」の下にソ連へ進攻したことで、松岡の構想は瓦解しました。
戦後に撮影された渋谷スクランブル交差点の様子。 左下のベンチで囲まれた像が1948年に再建された忠犬ハチ公像です。 1989年に駅前広場が拡張された際に、現在の位置へ移動され、駅の出口の方向へハチの顔が向く形となりました。 像の台座の高さも、触れやすい高さに変更されたそうです。
1912年4月10日、タイタニック号がイギリスのサウサンプトン港からアメリカのニューヨーク港に向けて出航しました。 周知の通り、タイタニック号はこの5日後に海上の氷山に衝突し、沈没します。 また、乗船客の中には唯一の日本人で鉄道官僚の細野正文がいました。
明治時代に撮影された日本の風景
今日は「忠犬ハチ公の日」です。 ハチの命日は3月8日ですが、3月はまだ寒く雪も残るため、1ヶ月後の4月8日が「忠犬ハチ公の日」とされたと言われています。 また、ハチが生まれた秋田県大館市にもハチ公の銅像があり、渋谷駅前と同様に、毎年4月8日に慰霊祭が行われています。 #ハチ
1945年4月7日、戦艦大和が沈没しました。 一億総特攻の魁として沖縄に海上特攻という形で出撃しました。 鹿児島の坊ノ岬沖でアメリカ軍機と戦闘に入り、約2時間の攻撃により沈没しました。 死者は2,740名、生存者は269名でした。
1867年3月30日、アメリカがロシアからアラスカ一帯を購入しました。 売却額は現在の貨幣価値で約134億円でした。 当初は「巨大な保冷庫を購入した」と非難を浴びましたが、金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明、冷戦期には国境を接する重要拠点になるなど、評価が上がりました。
940年3月25日(天慶3年2月14日)平将門が討死しました。 将門の首は京で晒し首となりますが、何ヶ月経っても腐らず、目を見開いていました。 やがて首は関東を目指して空高く飛び、途中で力尽きた場所が、現在の大手町にある将門塚であるといわれています。
1945年3月22日、硫黄島の戦いでバロン西こと西竹一が戦死しました。 西の最期は不明ですが、火炎放射器で片目をやられながらも、部下と最後の突撃を行ったといいます。 西の戦死の一週間後、ともに金メダルを獲得した愛馬ウラヌスも西の後を追うように亡くなりました。
大正時代に撮影された隅田川の花火の様子
今日は「春分の日」です。 戦前は春季皇霊祭と呼ばれていました。 元々この日はお彼岸で、明治時代にそれまでの歴代天皇や、主たる皇族の忌日を春と秋にまとめ、奉祀したのが始まりです。 戦後になって、「春分の日」と改称されました。
明治時代に撮影された伊香保温泉 石段の風景
1930年3月15日、横浜の山下公園が開園しました。 関東大震災の復興事業として、市内のがれきなどを使って海を埋め立て造成されました。 写真は開園当初の山下公園です。
今日は新選組の日です。 京都・壬生に詰めていた新選組の前身「壬生浪士組」に、会津藩主で京都守護職の松平容保から会津藩預りとする連絡が入り、新選組が正式に発足したことにちなみます。 その後、池田屋事件、禁門の変で活躍し、知名度も上がっていくことになります。
1974年3月12日、太平洋戦争に従軍し29年間ゲリラ戦を展開していた小野田寛郎がフィリピンから帰国しました。 小野田は拾った日本の雑誌から、東京オリンピック、東海道新幹線開業など、日本が繁栄している事は知っていました。 しかしその日本はアメリカの傀儡政権であると信じていたようです。
1905年3月10日、日露戦争の奉天会戦で日本がロシアに勝利し、奉天を占領して奉天城に入城しました。 これを記念し「陸軍記念日」として、日本海海戦での勝利を記念した海軍記念日と並んで祝日とされました。 戦後、この祝日は廃止されています。 写真は1944年の有楽町での陸軍記念日式典の様子です。