1869年6月20日、土方歳三が戦死しました。 箱館戦争では松前城を陥落させるなど指揮官として活躍し、新政府軍が上陸しても、土方が守る二股口では連戦連勝していました。 最期は新選組の守る弁天台場が新政府軍に包囲され孤立していたところを救出するために出陣したところを撃たれ亡くなりました。
今日は桜桃忌です。 1948年6月19日、6日前に自殺した太宰治の遺体が発見されたことから太宰を偲ぶ日とされています。 名前の由来はさくらんぼの時期であることと、晩年の作品の桜桃にちなみます。 太宰の遺体が発見されたこの日は太宰の誕生日でもありました。
1945年6月17日、鹿児島大空襲が行われました。 鹿児島市内一円に対して行われた空襲により、死者2,316人、負傷者3,500人の被害が出ました。
1948年6月13日、太宰治が愛人の山崎富栄と玉川上水へ入水しました。 現場には手をついて滑り落ちるのを止めようとした痕も残っており、太宰は死の直前に突然、生の執着が胸をよぎったのではないかと推測されています。 遺体は6日後の6月19日、太宰の誕生日に発見されました。
大姫の「ぬえを射落とした」というのは、「鵺」という怪物のことを指しています。 頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物で、以仁王とともに打倒平家の兵を挙げた源頼政が、御所の警護中に、黒雲の中から現れた鵺を弓で射落とし、退治したという逸話が平家物語に残されています。 #鎌倉殿の13人
1872年6月12日、品川〜横浜駅間で日本初の鉄道が仮営業をはじめました。 新橋〜横浜駅間での正式開業は約4ヶ月後の10月となっています。 この鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上しました。 写真は明治時代に撮影された品川駅の様子です。
明治時代に撮影された奈良の風景
銀座の変遷(1880〜1933)
金剛とケンカした安達盛長の嫡男、弥九郎こと安達景盛は、のちに娘を北条泰時の長男に嫁がせるなど、北条氏の同盟者として北条氏を支えました。 景盛の娘は松下禅尼として名が残っており、障子の切り貼りを自らしてみせ、5代執権北条時頼に倹約の心を伝えた人物として有名です。 #鎌倉殿の13人
後白河法皇は再建された東大寺の大仏開眼を、式の当日に急遽自らの手で行うと宣言し、周囲を慌てさせています。 開眼供養の一月前に京都は大きな地震に襲われ、余震も続いていたことから、周囲が地震を心配し止めたものの「階段が壊れて死んでも後悔はしない」と聞き入れませんでした。 #鎌倉殿の13人
1945年6月5日、神戸大空襲が行われました。 神戸は終戦の年の1945年に大小合わせて128回の空襲を受けており、特に大きかった2度の空襲と6月5日の空襲で神戸市全土が壊滅状態となりました。
1942年6月5日(日本時間)、ミッドウェー海戦が始まりました。 ミッドウェー島攻略を目指す日本軍をアメリカ軍が迎え撃つ形で発生し、日本軍は赤城、加賀など空母4隻と艦載機290機などを喪失、戦死者3000名と大敗北を喫しました。 この敗戦は優勢に戦争を進めていた日本が劣勢に回る転換点となりました。
1953年6月2日、エリザベス女王の戴冠式が行われました。 前年に25歳で即位しており、夫のフィリップは共同君主ではなく、Prince Consortの称号も持っていませんでした。 ウェストミンスター寺院で行われた戴冠式は、史上初めて当時の最新メディアである白黒テレビにより全世界で中継が行われました。
1835年5月31日、新選組副長の土方歳三が生まれました。 土方は容姿が良く芸者、舞妓などから恋文をたくさん送られていました。 土方はそれを木箱にまとめて日野の親戚のもとに「つまらぬ物」と書き送って自慢していました。 「報国の心わするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたといいます。
1934年5月30日、東郷平八郎が亡くなりました。 東郷死去に際し「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が小学生の見舞状が新聞に掲載され、大きな反響をよびました。 死後に東郷神社が建立され神として祀られますが、生前乃木神社に対抗して、自身の神社の計画があることに強く反対していました。
畠山重忠、稲毛重成、阿野全成 北条の姫を妻にした彼らの最期は悲惨そのもの… 時政りくさん夫妻、義時八重さん夫妻も、あの場にいた人たちみんなまとめて「おんたらくそわか」って大姫に呪いかけられてる…? #鎌倉殿の13人
「あおい」が源氏物語の葵の上由来だとしたら、大姫は何か怨霊に取り憑かれている…? 葵の上は六条御息所の生霊に取り憑かれ、若くして亡くなった人物。 病に臥せりがちと伝わる大姫がこんなに元気なのも違和感あるし、鎌倉中に災いを振りまく存在になってしまうのでは…? #鎌倉殿の13人
1905年5月27日、日本海海戦が行われました。 東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊の艦艇をほぼ損失させる、海戦史上まれに見る大勝利を収めました。 アメリカでは黄色人種が白人に勝つはずがないとして日本勝利を誤報と断じ、ロシアの水兵が反乱を起こしたという報道がなされたといいます。
1945年5月25日、B29爆撃機470機によって東京で空襲が行われ、3,651人の死者が出ました。 この空襲で天下三名槍の一つである御手杵が松平家所蔵の宝物とともに焼失してしました。 当主は槍を埋めるように言っていましたが、家人が宝物にそんな扱いはできないと無視していたことが仇になったようです。
寛永13年5月24日、”独眼竜”伊達政宗が亡くなりました。 政宗は徳川家光から「伊達の親父様」と慕われ、政宗も家光に諫言できるほどに信頼関係がありました。 政宗が亡くなった時、庶民に対しても江戸で7日間・京都で3日間喪に服すことが命じられ、これは外様大名に対する礼としては異例の対応でした。
元弘3年5月22日は新田義貞ら倒幕軍によって鎌倉が攻められ、北条高時ら北条一族、幕府の中枢280人あまりが東勝寺で自害し、鎌倉幕府が滅亡した日。 よりによって5月22日の放送で、高時たちの祖先の北条義時に鎌倉攻めの策を渡す三谷脚本… #鎌倉殿の13人
元弘3年5月22日は鎌倉幕府が滅亡した日です。 後醍醐天皇の討幕運動に連動し、新田義貞を中心とした軍勢が鎌倉に攻め込み、4日間の戦闘を経て追い詰められた北条高時ら北条一族は、東勝寺で一族、家臣たちと自刃しました。 源頼朝が鎌倉に入ってから153年後のことでした。 #鎌倉殿の13人
明治時代の初め頃に撮影された東京の風景
1936年5月18日、「阿部定事件」が起きました。 芸妓の阿部定が性行為中に愛人を絞め殺し、その男性器を切断し、懐に所持して逃亡した事件です。 その猟奇性ゆえに、事件発覚後および逮捕後に号外が出されるなど、世間に大きな衝撃を与えました。 二・二六事件と並ぶ「昭和11年の三大事件」の一つです。
五・一五事件での犬養毅の最期の言葉は、戦後『話せばわかる』だったと喧伝されてきました。 しかし、孫の道子氏によれば、『話を聞こう』というのが正確な内容であったと述べています。 犬養家に長年仕えていた女中も、犬養の口から『話せばわかる』という言葉は発せられなかったと証言しています。