頼家が修善寺に送られた頃の登場人物たちの年齢(満年齢) 北条義時 40歳 北条時政 65歳 北条政子 42歳 北条時房 28歳 実衣   40歳 源実朝  11歳 三浦義村 35歳 和田義盛 56歳 八田知家 61歳 畠山重忠 39歳 平賀朝雅 21歳 後鳥羽上皇 19歳 北条泰時 20歳 源頼家 21歳 #鎌倉殿の13人
明治時代に撮影された大阪の風景
明治時代に撮影された東京の風景
1944年8月22日、対馬丸事件が起きました。 那覇国民学校の児童、教師ら1,661名が沖縄から長崎に向けて疎開する途中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け、1,484名が亡くなりました。 乗客のほとんどが船倉にいて避難が遅れたうえ、他の船が攻撃を避けるために救助に向かえず、被害が拡大しました。
比奈は、義時と離縁した後に、京都の貴族で歌人としても有名な源具親に再婚します。 具親との間に、輔通、輔時という2人の子をもうけ、輔時はのちに、比奈と義時の間に生まれた北条朝時の養子となります。 輔通も、幕府の後押しで官位の任官を受けるなど、北条氏との縁は続きました。 #鎌倉殿の13人
大正〜昭和初期に撮影された札幌の風景
1945年8月20日、真岡郵便電信局事件が起きました。樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が終戦後も続いていました。 真岡郵便局の電話交換手は引き揚げをせずに業務中でしたが、真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手が局内で自決を図り、9名が亡くなりました。
約100年前に掲載されていた、現在でも続いている企業の広告
1945年8月18日、占守島の戦いが始まりました。 ポツダム宣言受諾後、停戦状態であったにも関わらずソ連軍は武装解除中の日本軍を奇襲攻撃します。 池田末男大佐を中心とした日本軍は戦闘を優位に進めるも、21日に降伏、武装解除しました。 捕虜となった日本兵はシベリアに抑留されることになります。
798年8月17日、清水寺が建立されました。 古くから能や歌舞伎などの伝統芸能が演じられてきた「清水の舞台」ですが、最初から存在した訳ではなく、初めて作られたのは11〜12世紀頃のこと。 その後何回も焼失の憂き目に遭い、現在の舞台は、江戸幕府3代将軍徳川家光の寄進によって再建されたものです。
名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に在籍していた石丸進一は特攻隊員として零戦に乗って出撃し、戦死しました。 1942年には17勝を挙げ、1943年には戦前最後のノーヒットノーランを達成するなど、名古屋軍を代表する投手でした。 出撃前に最後のキャッチボールを行い、出撃したといいます。
1945年8月15日、捕虜収容所にいた日本兵と、勝利を喜ぶアメリカ兵の様子 #終戦記念日
明治時代に撮影された靖国神社
1949年8月15日、石原莞爾が亡くなりました。 関東軍参謀として満州事変を起こし、わずか1万の兵で23万の張学良軍を相手に満州を占領しました。 石原は最終戦争として日米決戦を構想していましたが、東条英機との対立により陸軍を追いやられたことで戦後の戦犯指定を免れています。
1945年8月15日、終戦を迎えた人々の様子 #終戦記念日
善児の弟子 トウは、義時の郎等として『愚管抄』に登場する「藤馬」がモデルになったといわれています。 慈円が書いた『愚管抄』によると、屋敷から逃された一幡は、比企能員の変から2ヶ月後に、義時の郎等、藤馬によって殺害されたとのことです。 #鎌倉殿の13人
1945年8月14日、葛根廟事件が起きました。 満州国で婦女子を中心とした1,000人以上の日本人避難民がソ連軍により虐殺されました。 白旗を上げた避難民に対し、ソ連軍は攻撃を加え続け、戦車に轢かれた者も多くいました。 生き残った者も、中国人暴徒により身ぐるみ剥がされたといいます。
1945年8月14日、京橋駅前空襲が行われました。 約150機のB29は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下しました。 京橋駅では乗客がホームに避難していたところに、1発の1トン爆弾が高架を突き破ってホームに落下して爆発し、爆弾の直撃を受け約800人の犠牲者が出ました。
1985年8月12日、日本航空123便墜落事故が起きました。 東京から大阪へ向かう日本航空123便が、機体損傷により操縦不能に陥り、18時56分に御巣鷹の尾根に墜落しました。 乗客524人中520人が亡くなり、単独の飛行機での航空事故の死亡者数としては、世界最多の事故となってしまいました。
歴史上の人物の肖像画は数多くありますが、所詮は絵なので、実際はどんな顔をしていたのか分からないものです。 その中でも、写真と肖像画の両方が残っている人物の1人が、北海道の松前藩12代藩主 松前崇広。 特徴はよく捉えられていますが、実物の方が何倍もかっこいいですね。
今日は山の日です。 2014年に制定され、お盆休みと連続させやすいことから、当初はお盆の前日の8月12日にする案が採用されていました。 しかし、8月12日は、御巣鷹山で日本航空123便墜落事故が起きた日で、山の日と制定するには不適切との指摘が相次ぎ、8月11日が祝日とされました。
原爆によって破壊された長崎・浦上天主堂
1945年8月9日、広島に次ぎ、長崎に原子爆弾が投下されました。 投下されたのは、広島に投下されたウラン型ではなく、アメリカが多額の予算を注ぎ込んだプルトニウム型の原子爆弾でした。 ウラン型とプルトニウム型の威力を比較・実験するために、長崎は2度目の被曝地目標になったといわれています。
1940年8月8日、戦艦大和が呉海軍工廠にて進水しました。 しかし、機密保持の点から、進水式は公表されていませんでした。 式には久邇宮朝融王が臨席しましたが、一般客はおらず、工廠関係者たち約1,000人に見守られながら静粛に執り行われました。 写真は進水式の翌年に呉工廠にて撮影された大和です。
阿野全成の娘が公家に嫁ぎ、阿野の名字と領地を相続したことで阿野家は公家として残り、全成の血は天皇家にと繋がります。 養子を挟みながら昭和まで続くも、戦争で当主と後継ぎが戦死し断絶。 阿野家の墓は今も谷中霊園にひっそりと建っています。 #鎌倉殿の13人