1971年9月18日、日清食品が「カップヌードル」を発売しました。 チキンラーメンの開発者である安藤百福がアメリカにも売り込みますが、箸と丼が身近になく売れませんでした。 アメリカ人が袋麺を紙コップに入れ、フォークで食べていたのを見て現在のカップ麺が開発されました。
1894年9月17日、日清戦争で「黄海海戦」が起きました。 この海戦で、清国主力の北洋艦隊を撃破しました。 北洋艦隊の水師提督・丁汝昌は、伊東祐亨中将率いる連合艦隊に敗れ、部下の助命を条件に降伏した後、毒を仰いで自決しました。 伊東は敵将である丁に敬意を表し、丁の遺体を帰国させました。
1923年9月16日、甘粕事件が起きました。 無政府主義者の大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝が甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄されました。 甘粕はこの事件で10年の実刑判決を受けますが、実際には約3年で出獄しています。 その後は一旦フランスへ移住し、1929年には満州へ渡りました。
1832年9月13日、鼠小僧が処刑されました。 大名屋敷のみを狙って盗みを行い、それを貧しい人に施したことから義賊と讃えられています。 捕まった時は財産はほとんどなく、処刑前の市中引き回しでは有名人の鼠小僧がみすぼらしい格好だと反発を買うことから、奉行所が豪華な着物を用意したといいます。
1912年9月13日、乃木希典が明治天皇の後を追って殉死しました。 乃木は日露戦争の旅順攻囲戦を指揮し、情報や物資が不足する中でロシアを圧倒し、「日露戦争の英雄」とも呼ばれています。 この和やかな写真が撮られた日、つまり、明治天皇の「大喪の礼」が行われた日に妻・静子と共に自刃しました。
源実朝が結婚した頃の登場人物たちの年齢(満年齢) 北条義時 41歳 北条時政 66歳 北条政子 47歳 源実朝  12歳 千世(実朝の妻)11歳 三善康信 64歳 大江広元 56歳 畠山重忠 40歳 平賀朝雅 22歳 北条時房 29歳 北条泰時 21歳 実衣   45歳 三浦義村 36歳 和田義盛 57歳 八田知家 62歳 #鎌倉殿の13人
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こりました。 イスラム過激派のアルカイダの攻撃によって2977人が亡くなり、25000人以上の負傷者が出たほか、インフラなどに多くの被害をもたらしました。 9・11テロ事件と呼ばれるこの事件を契機にアフガニスタン紛争が勃発し対テロ戦争が本格化します。
「正露丸」は「征露丸」とも呼ばれていました。 つまり、「征露」=ロシアを征伐するという意味で、日露戦争の期間に広く軍の間で使用されました。 戦後、戦勝ムードの中で民間にも知れ渡り、「ロシアを倒した万能薬」として多くのメーカーから販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
エリザベス女王は1926年の生まれです。 10代の頃に第二次世界大戦を経験し、軍の女性部隊であるATSに入隊し、トラックの運転やエンジンの修理の訓練を受けていました。 その経験もあって、車の運転はお手のもので、私有地内を自ら運転して、外国の要人を案内したというエピソードも残っています。
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結されました。 これにより日本と連合国の戦争状態が終結しますが、ソ連は米軍の駐留に反対し条約に署名せず、現在もロシアとの講和条約は締結されていません。 同日、日米安全保障条約が締結され、引き続き米軍が日本に駐留することとなります。
1901年9月7日、義和団事件が終結しました。 清が列強に分割される中、西太后が「扶清滅洋」を叫ぶ義和団の支持を受けて、欧米諸国に宣戦布告した一連の動乱を義和団事件と呼びます。 この事件を通じて、イギリスは秩序ある日本の行動を評価し、1902年の日英同盟締結の契機となりました。
1923年9月6日、福田村事件が起きました。 関東大震災の混乱の中で、千葉県で香川県からの行商人が地元の自警団から暴行を受け9人が亡くなりました。 200人ほどの自警団が「言葉がおかしい」など次々と言葉を浴びせ、村長が「日本人ではないか」と言っても聞かず、事件は起きました。
1946年9月5日、クイーンのボーカリスト・フレディ・マーキュリーが生まれました。 ロンドンの自宅には日本庭園を作るほどの親日家で、来日公演時以外にもお忍びで来日し、伊万里焼などの骨董品を集めていました。 また、日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だったそうです。
北条政範が京都に上った頃の登場人物の年齢(満年齢) 北条義時 41歳 北条時政 66歳 北条政子 47歳 北条時房 29歳 北条泰時 21歳 北条政範 15歳 実衣   45歳 源実朝  12歳 三浦義村 36歳 和田義盛 57歳 八田知家 62歳 畠山重忠 40歳 平賀朝雅 22歳 後鳥羽上皇 20歳 #鎌倉殿の13人
大正時代に撮影された有楽町駅
1913年9月4日、田中正造が亡くなりました。 日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒事件で抗議活動の中心となり、明治天皇への直訴も行いました。 その後も栃木県谷中村の貯水池化への反対運動に参加するなど抗議活動を続け、死去時にはほぼ無一文であったといわれています。
1945年9月3日、 オーストラリア出身の新聞記者ウィルフレッド・バーチェットが、原爆が投下された広島市を取材し「No more Hiroshima」という言葉とともに、その惨状を世界に訴えました。 GHQの報道規制があったにも関わらず広島の惨状を世界に伝えたこの行動は、現在高く評価されています。
1945年9月2日、日本が降伏文書に調印し、第二次世界大戦が正式に終結しました。 調印式は米戦艦ミズーリ号で行われ、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らが日本全権として参加しました。 片足が義足だった重光は、ステッキを使って甲板まで登りきり、甲板上で一杯の水を所望するも断られたそうです。
1931年9月1日、群馬県と新潟県の間に清水トンネルが開通しました。 全長約9.6kmで、当時日本で最も長いトンネルとして話題となりました。 川端康成の小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネル」とは、完成したばかりのこの清水トンネルを指しています。
関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京の様子 #防災の日
関東大震災発生時、連合艦隊は大連沖で訓練中でした。 地震発生の報告を受け連合艦隊は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かっています。 このとき連合艦隊旗艦の戦艦長門は、対外公称速力23ノットであるにも関わらず、大隅沖で26ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されています。
関東大震災の被害状況、復興への道のりについてまとめた記事はこちら! rekishock.com/%e9%96%a2%e6%9…
アメリカで行われた関東大震災に対する募金活動の様子です。 アメリカ、イギリス、中国など世界各国から援助、義捐金、医療物資の提供の申し出がありました。 その中でもアメリカの支援は圧倒的で、「Minutes make lives(数分が生死を分ける)」をスローガンに全米規模で募金活動が行われました。
1923年9月1日、関東大震災が発生しました。 M7.9という東日本大震災に比する規模の大地震で、更に火災による被害も重なり、約10万人の方が亡くなりました。 また、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火して回っている」といったデマが広まり、多くの無実の朝鮮人が殺害されました。
1879年8月31日、大正天皇が生まれました。 気軽で奔放な性格で、皇太子時代に狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、途中の家でお茶漬けを勧められたり、陸軍の演習中に、突然友人宅を訪問したり、当時上品な場所でないとされていた蕎麦屋に入ったなどのエピソードが残されています。